龍野・ 圓光寺
二
平福を後にした弁之助は幼年期を過ごした讃甘村宮本に戻ってみた。村では、竹山城主・新免宗貫(むねつら)の筆頭家老であった養父・新免(平田)無二斎も宗貫の理不尽な命を受け、やむを得ぬこととはいえ、愛弟子の本位田外記助(ほんいでんげきのすけ)を竹内中務坊とともに騙し討ちにしたことから、いづらくなり、新免家を出奔(しゅっぽん)していた。
弁之助も養父と同じ運命なのかといま改めて感じた。養家の平田家にはもう誰も住んでいない。隣家の平尾与右衛門に嫁いだ姉・お吟(ぎん)だが、夫婦ともいっとき播磨に所払いされていた。しかし、いまはここに戻ってきていた。
そこでお吟に自らが預かっていた平田家の家系図や十手などの武具を預けた。平尾家は瓦葺屋根の家で、入り口には栗の木がありその毬栗を食べたことや欅の木を木刀で打ったことなどが懐かしく思い出された。
歳の離れた姉のお吟は、弁之助が幼い頃からかわいがってくれていて、いまも優しく接してくれた。だが、ここもおのが居場所ではない。
有馬喜兵衛を倒した後、幼き日々を過ごしたここ讃甘村宮本の地にしばらく留まっていた弁之助であったが、一人少々早い兵法修行の旅に出た。そして、美作や播州の地を経巡って、草鞋を脱いだのが播州・龍野の圓光寺であった。
圓光寺は、蓮如上人(れんにょしょうにん)が開いた一向一揆の浄土真宗の寺であった。石山本願寺が織田信長により攻撃を受けたとき、第四世住職・多田祐恵(ゆうけい)は播磨一円の門徒を率いて戦った。
特に難波(なにわ)の合戦で味方の窮地を救った功により、蓮如上人から朱柄長刀(あかえのなぎなた)と弁当箱を賜った。寺にはいまでもこれが大切に保管されていた。
境内には広い道場があり、寺侍や城下の門徒の鍛錬の場となっていた。
幼い頃から養父・無二斎の門弟への稽古や竹内中務坊の柔術など、側で見て学んでいた弁之助は、圓光寺の道場で実際にいろんな相手と鍛錬することで、その技量は瞬く間に上がった。
十六歳にして道場では随一の手練れとなり、一つ年下の地侍の倅、落合忠右衛門や三歳上の多田半三郎らが武蔵の弟子となった。