永六輔さんの「大往生」に市井の達人たちの至言が紹介されている。
「長く生きるコツ、簡単です。死なないようにすればいいんです」
「当人が死んじゃったということに気がついていないのが、大往生だろうね」
「人間は自分の言った通りなんか生きられません。そんなことしたら死んじゃいます」
このようにカラッと明るく、生きることと死ぬことを鷲づかみにしていれば、生き方死に方にそう迷わずに、日々生きていけるのではないだろうか。
死生観という言葉がある。辞書によると、「死あるいは生死に対する考え方。また、それに基づいた人生観。(大辞林、第三版)」とある。
要は、死という終わりの瞬間を見据えた人生観であるから、死に方より生き様の有りようを示す言葉と解釈できる。また、死に際の生き方ともとらえられる。
死に際の生き方については、「終わりの美学」とか、「引き際の潔さ」という言葉がある。これらは、生きることや社会での立場や実行中のことを自然に終えることが簡単ではないから、こうありたいという、ある種「あこがれ」のような感情を持って言われることが多い。
「滅び」に美しさを感じるのは、桜の散り際をこよなく愛でる日本人の特質でもある。海外での格言箴言の中には、あまり見かけない。有名なところでは、マッカーサーの「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」くらいであろうか。
それでは、「綺麗に終える」ことが何故難しいのであろうか。何事も、それを始めるときの、何もないところからいろいろな関係を構築していく楽しい作業であることに比べて、終わるときには構築した様々な関係を一つひとつ整理し消去するという、おもしろ味が少なく労力のかかる作業であるからではないだろうか。
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