第2章

民主主義国家イスラエルに存在する社会主義的生活共同体キブツで働く

1970年代のイスラエルの地

 

私がロンドンを経由してイスラエルのロッド空港(現在のベン・グリオン国際空港)に降り立ったのは、赤軍派がロッド空港乱射事件(パレスチナ解放人民戦線の依頼を受けて日本赤軍メンバーがイスラエルのロッド空港で1972年5月30日に起こした乱射事件)を起こした2年後であった。

当時の私は⾧髪で、風貌があの日本赤軍の最高幹部の重信房子に少し似ていた為か、空港での入国検査は私だけ別の部屋に連れていかれ身体検査をされた。

かなり時間がかかったもののイスラエルへの入国が許された私は、バスでテルアビブ市内にあるキブツの本部に向かった。

今となっては、何故二つのキブツに行くことになったのか覚えていないが、私はそこで初め、テルアビブからそう遠くない方のキブツ、ニル・エリヤフ(Nir Eliyahu)に行き、後に、ガラリア湖の南に位置する方のキブツ、アッシュドット・ヤコヴ・イフド(Ashdod Ya′akov Ihud)に行くように指示された。

ニル・エリヤフは比較的小さなキブツで、バナナ、ナツメヤシの実、オリーブ等の農産物の栽培の他、数年前に建てられたプラスチック生産工場があった。

キブツの朝は早い。私は、1970年代のイスラエルの地図キブツに着いた日の翌朝5時に起こされ、キブツの所有するバナナ畑までトラクターに乗せられて連れて行かれた。

この時私は、キブツから与えられた作業着を着ていたのだが、靴は持参したサンダルを履いていた。

これが大きな間違いだった。足の甲まる出しのサンダルで2~3時間バナナ畑を歩き回った私の足を、蚊が容赦なく刺しまくった。痒みに耐えられなかった私は、右足の甲を血が出るまで搔きむしり化膿させてしまった。この傷跡は、50年程経った今でも残っている。