第2章
アメリカ以外の世界を知ろうと旅した放浪時代
キブツは、ボランティアワーカーに労働力を提供してもらう代わりに衣食住を無料で提供するということで、キブツ滞在中の私の生活費は無料であった。
丁度その頃アメリカ人の友人が、『Asian Business & Industry』(香港から発行されたアジアのビジネス産業を扱った週刊誌で1970代末に廃刊になった)という雑誌の取材でマレーシアとシンガポールへ行くというので同行させてもらい、シンガポールからロンドン経由でイスラエルのテルアビブに行くことにした。
因みに、私がこの時何故東京から直接テルアビブに行かなかったのかというと、東京の旅行会社で購入する「東京-テルアビブ間」の航空券が非常に高価だったからである。シンガポールまで行けば、ロンドン経由テルアビブ行きの格安航空券を買うことができると聞き、友人のマレーシア旅行に同行したのである。
この時の旅費は、二つのアルバイト(英語の家庭教師と求人広告専門の広告代理店勤め)をして稼いだお金で出すことができた。
バスを乗り継ぐマレーシアでの貧乏旅行
確か、取材はマレーシアとシンガポールのゴム産業に関することだったと記憶している。友人がクアラルンプールでの取材を終えた後、私達は、マレーシアの東部を海岸線沿いにローカルバスを乗り継いで旅することにした。
バスと言っても中古のミニバンのようなもの。もちろんエアコンなど付いていない。宿の予約などなく、日が暮れたら宿を探すといった貧乏旅である。その頃のマレーシア東部には大都市はなく、小さな町や村がポツンポツンとあった。そんなある日、バスを乗り継いでとある小さな町に行き着いた。
いつものように、宿探しを始める。1件目、2件目、3件目とあたったが、全て満室。なんでもマレーシアで人気の映画スターが撮影の為にこの町に来ており、3件しかないホテルは全て貸し切られているということだった。これから隣町に行くにしても、もうバスはない。私達は、覚悟を決めて町の中心にある広場のベンチで代わる代わる横になって夜を明かすことにした。