まず私が、「起き番」。私は、誰か襲ってきたら防御できるように、折りたたみの傘を右手に握りしめた。午前0時を過ぎた頃、大きな黒い人影が現れ、マレー語で何か言っている。私は、急いでベンチで横になっている友達を起こした。すると、マレーシア人にしては体の大きなこの男は、片言の英語で自分の家に泊めてやると言った。
今思うと、そんなに簡単に人を信じて付いて行ったら危険だと思うのだが、その時は単純に有難いと思って男のミニトラックに乗り込んだ。小一時間走った頃、大きな鉄の門のある農場に着いた。男は、農場の一角にある建物の中の板の間の部屋に私達を案内し、そこで寝るようにと言った。
部屋は、電気がなく真っ暗なので、何があるのか全く分からなかったが、疲れ切っていた私達は直ぐ眠りについた。
明け方、私達は、こっこ、こっこ ……という異様な音で目が覚めた。よく見ると、私達が寝ていた板の間は金網で仕切られていて、仕切りの向こうには数百羽の鶏がいた。私達は、養鶏場の鶏小屋で寝ていたのである。私は、「うわー! 気持ち悪い」と叫びながら、小屋から走り出て農場を後にした。
因みに、私は鶏が大嫌いである。生きているものも、死んで鶏肉になっているものも嫌いである。バードウォッチングを楽しんだり、ケンタッキー・フライド・チキンを美味しい美味しいといって食べている人達の気が知れない。
私の鶏嫌いは、私が鍛冶町に住んでいた頃、お煎餅工場で働いていた従業員が、家で飼っていた鶏を私の目の前で絞めて、その日の夕食に食べた時から始まり、未だに続いている。私は、家では絶対に鶏料理を作らないので、家の家族は外食する時は往々にして鶏料理を注文する。アメリカでは七面鳥が感謝祭の定番メニューだが、家では七面鳥料理はハムに代わる。
その後私達は、クアラルンプールに戻りそこから汽車でシンガポールに向かった。私には、その時のシンガポールの印象はあまりない。ただ、マレーシアに比べたら大都会だなあと思ったことぐらいである。ともあれ、私はそこで友達と別れ、テルアビブ行きの航空券を購入しロンドン経由でテルアビブに向かった。
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