対照的な父と母

母は頭もよく(お店の人がレジを打つより母の暗算の方が早い!)、運動神経もあり水泳も得意で、若い頃、名立の海で遠泳の指導もしたそうです。

裁縫や編み物も得意で、夏になると三人の娘にワンピースを、自分にはスーツを手早く作って、四人お揃いの洋服で父に写真を撮ってもらったものです。

指導力もあり、鼓笛隊を編成して街中をパレードしたり、NHKの音楽コンクールに出場したり。生徒たちには楽器を自由に使わせてくれ、そのお陰で女の子たちの多くがピアノを弾けるようになりました。

ユーモアもあり、生徒や保護者から慕われていた母でしたが、私と姉にとっては“恐怖の母親”でした。上の姉は小さい頃、髪の毛にパーマをかけてもらったり可愛い洋服を着せてもらったり、母から可愛がられていたような気がします。

一方私はほとんどお古ばかり。「末っ子は損だな……」と思っていました。ところが学年が進むにつれ、毎日のように姉ばかりが怒られるようになったのです。

夕飯を食べながら、

「今日の集会のとき、和ちゃんはあっち見たりこっち見たり、ふらふらしていた」

「(授業参観のとき)栄子はちゃんと発表するのに、和ちゃんは手も挙げない」

「栄子は度胸があるが、和ちゃんは怖がりだ」

と私と比較して姉を叱るのです。

私だって、きょろきょろしているし、特に度胸があるとは思わないのですが、そんな風に母が怒ってばかりいたせいか、小さい頃はニコニコしていた姉も次第に笑わなくなり、学校で私と顔を合わせることさえ嫌がるようになっていきました。

一方、新年の書初めの時期になると今度は私が母の攻撃の的となり、恐怖の指導を受けました。一筆書き始めると、「そうじゃない!」と怒り、また書こうとすると、「そうじゃないって言ってるだろ!」と怒鳴るのです。

そのうち殴られるのではないかと思うとますます上手く書けず、時間ばかりがどんどん過ぎて、火の気のない部屋で寒さと恐怖に震えながら深夜まで書き続けたことを覚えています。

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