第二章 自己心理学から見た各支の意味

「無明」とは、「錯覚としての自我」のこと

無明とは、一般に無知のこととされますが、何についての無知かというと、定方晟(さだかたあきら)氏によれば、ゴータマ・ブッダが悟ったとされる「無我」についての無知のことのようです。

また山田無文(むもん)氏は、著書『般若心経』において、次のように語っています。

『私どもの心というものは、実に何でも入れておける蔵だ。

……この何もかも入れておる意識の総合体の中から、私どもは自我というものを一つ作り出して来る。我という観念を作り出して来る。それが仏教で言う無明であり、そもそも迷いの元であります。』

南直哉(みなみじきさい)氏は「超越と実存」において、次のように解釈しています。

『人間は無常で無我であるにもかかわらず、自己として常に同一であると錯覚している。……この根源的な妄想が無明と言われるものである。』

『この無明とは大いなる迷いであり、それによって永い間このように輪廻してきた。』 

  (スッタニパータ 730)

これらをまとめると、無明=無我についての無知=自我=我という観念=迷い=自己という錯覚=根源的な妄想、という関係が成り立ちます。

何についての迷いかというと、「無我」つまり「我というものは存在しない」ということが分からないで、「我(自分)というものが存在すると錯覚していること」を意味します。

「自我」の存在を信じる誤った見解(我見)が迷いの内容です。

 『五蘊(ごうん)に執着することによって我見(がけん)が生まれる。』     

(サンユッタ・ニカーヤ 22、155)

五蘊とは、とりあえず現代的には「自分という意識」(自我)を形成する五つの心理的記憶要素のことであります。他人との関わりにおいて、自分に関することがらを記憶として取り込んだもの、「自己知識」ともいえます。

「サンユッタ・ニカーヤ 22、126」においては、『無明とは、五蘊の生滅を正しく知らないこと』とあります。

自我を形成する五つの要素は、意識に生じたり、意識から消えたりすることを知らないことが、無明だと語っています。       

少し煩雑になりましたが、とりあえず無明とは、「自我というものは存在しないということが理解できないこと」「無我についての無知」と解釈できます。

迷いの視点からは、「錯覚としての自我」(自我は錯覚である)を意味します。

結局、無明とは、「五蘊への執着から成る自分というものは存在しない」ということが理解できないことであるといえます。

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