第2章 光秀と将軍義昭

3.十七箇条の異見書(いけんしょ)

九月十二日<二条御所>

信長

「うむ、もうよい、大儀であった。儂の異見書が守れないのであるなら、もはや征夷大将軍としての資質がないと言わざるを得ない。光秀、義昭様との交渉役の任を解く。今後は調略に長けている秀吉に対応させる。

それより甲斐の武田信玄が甲府の躑躅ヶ崎(つつじがさき)の館を出て、いよいよ上洛のため、出陣したとの報が徳川家康から入った。今度は本気らしい。我らもこれに対応すべく準備をしなければならない。光秀、そちも急ぎ国に戻り戦の準備をせよ」

光秀

「ははつ」

⇒またも秀吉か、信長様は何故にあの調子者の猿に目を掛けられるのか。いやいやこの度は、将軍家の臣下であった光秀に、義昭公の仕置きに立ち合わせるのもいかがかとお察しされた思いやりの判断であろう。

第3章 室町幕府の崩壊

おふく

元亀四年二月、三方ヶ原で織田信長・徳川連合軍を武田信玄が撃破したとの報せを受けた将軍義昭公は、今こそ信長様打倒の好機到来と勘違いし、今堅田城に兵を集め挙兵されたのでありました。しかしこれは光秀様や柴田・丹羽・蜂屋殿の兵によりわずか一日で陥落してしまいました。義昭公は懲りずに二条御所に籠り、四方の大名に信長打倒の御教書を発し抵抗されました。

すると突然、信貴山城主松永弾正が信長様に謀反。城に籠ったのでありました。

信長様は、今ここで松永弾正に背かれ、本願寺顕如が松永弾正に呼応して兵を挙げると、信玄の動静が分からないことから、三方を敵に囲まれることになるので、光秀様は様は義昭公に信長様との和睦を申し入れましたが、義昭公は頑なに和睦を拒否したのでした。

怒った信長様は「上京に火を付けろ」と命じられ、御所の廻りの上京の民家に火を付けたのでした。高をくくっていた義昭公は慌てて和議を受け入れました。しかし、今度は宇治にある巨椋池(おぐらいけ)にある槙島城に籠ったのです。