1.将軍義昭公の挙兵
光秀
「上様、坂本城から船を使い、馬を飛ばして参りました。将軍義昭様が旗を上げ、二条城で指揮を執りつつ、主力兵五千を今堅田城に入れ、支城の石山砦には三千程が立て籠ったとのことでございます」
信長
「光秀よう来た。将軍義昭様旗揚げのことは、儂にも報せが来ておる。あの世間知らずが何とも御しがたい。この度は徹底的に叩き、義昭様の目を醒まさせてやらん。
義昭様が集めた者共は、和邇(わに)の山岡景友を中心に、磯貝などの、近江の国人衆や、京洛の浪人共で、それに連動した一向宗門徒ら烏合の衆である。お主は、すぐ出陣せよ。それにしても、武田信玄は三方ヶ原の勝利の後、じっとしたまま動かぬ! 何を考えているのか……。
また、義昭様側近の細川藤孝が、この度の暴挙に反対して義昭様に諫言したが、側近の上野秀征らと対立し、義昭様から疎まれ、嫌気が差して蟄居したと聞く。これは義昭様の力をそぐ良い機会じゃ、細川藤孝を正式に織田家に仕えるよう調略せよ……」
光秀
「ははっ、承知いたしました。直ちに出陣致しまする。それにしても、細川殿は、義昭様が還俗して以来ずっとお側に仕えており、義昭様の恩人であると同時に、義昭様が最も頼りにしている重臣中の重臣であります。
その細川殿が蟄居されたとは、余程のことと存じまする。細川殿には、こちらから意を尽くして話せば理解してもらえると思いますので早速にも話を進めたいと思います」
信長
「うむ、南近江の瀬田にある石山砦と西近江の今堅田城には、六角の残党や伊賀・甲賀衆及び滋賀郡の豪族ら多数が公方の呼びかけに応じて反乱の旗を掲げ立て籠もっている。今堅田は、京への交通を遮断する要所である。
また、今堅田はお主の封土であることから、同じ近江分国の柴田・丹羽に協力を要請し、安土の蜂屋頼隆(よりたか)らと共に彼奴等を攻撃し、全ての者をなで斬りにせよ。柴田と丹羽には儂から命令しておく。
さすれば公方も己の思慮の浅さに気づき、すぐに降参し、細川藤孝の意見を見直さざるを得なくなる。これにより藤孝の面目も立つであろう。仙千代、柴田・丹羽・蜂屋の三名に直ちに朱印状を発せよ」
仙千代
「はっ、畏まって候」
【前回の記事を読む】臣下の信長から指図されるいわれはない!このような無礼は決して許されるものではない