「その上洛には供八十人を連れて行っています。その時に京の都をしっかりと見たに違いありません。そしてその後、堺に行き、奈良にも立ち寄ってから尾張に戻っております」

「戦いの最中にしては大胆不敵としか言いようがないですね。信長は京の都を見たくてしかたがなかったのでしょう。かねてから最大の関心事であったに相違ないわ。でもそこから更に堺と奈良に出向くとは並大抵の神経の持ち主と言わざるを得ないわね」

そこで優は質問した。

「堺の何に惹かれたのでしょうか、やはり堺の経済力、貿易の実態でしょうか」

「多分そうだと思う。信長の目線は常に経済の源に焦点を当てていた。その証がこの旅で如実に語られている。十歳のころから津島の貿易湊を見てきた。その津島よりスケールの大きい堺湊のことを聞かされていたに違いないと考えられる。その思いは何となく想像できる。でもそこから何故奈良に立ちよったのかしら。その点は不思議に思えるわ」

「悠子さん、当時、尾張と京の都の街道は東海道と滋賀と三重の県境、八風峠を通るルートがあります。こちらもかなり利用されていたようです」

「そうね、堺から尾張に帰るには奈良を抜けて伊賀、日野、八風街道を通り尾張に出るルートね。その考えが自然かもしれないけれど、私の感ではやはり信長は奈良の都も見ておきたかったと思うわ」

「京の都つまり平安京をつぶさに見た。そこでその前の都、平城京のことが気になり見てみたいと思い出かけた。ということでしょうか」

悠子は信長の心境を探りながら語りを続けた。

「信長は遷都の実態を自分の眼で確かめたいと思った。多分、尾張を出発する時には考えていなかった。おそらく京の都で思いついた。そんな気がする」

二人の検討はなおも続いた。平安京、平城京を比較しながら町づくりの手法を学ぶ。この大規模で行う都市計画の面白さに興味を抱いたに違いない。その点では二人の意見が一致した。

その一方で二人の疑念は信長の発想だけで行動すべてが決められたかどうかであった。戦闘と経済双方に目を向けることは如何に信長が天才といえども無理があるように思えたからであった。

けれど歴史資料において信長に参謀がいた形跡が見つかっていない。でも誰かがいたと感じ始めていた。その誰かが小牧山城、山下に平安京をモデルにした実験都市づくりの計画案を立案し、信長の代理人として実務を執り行い、町を築き上げた。

 

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