ザ・バサラ

「義元は鷲津砦、丸根砦を短時間で攻め落とすために今川軍の精鋭を出していた。結果は出せたが湿地帯での働きと砦の抵抗で疲れ果てていた。おそらく信長は各砦に十五丁ほどの鉄砲と八十人ほどの弓矢衆を配置していたであろう。

砦側の必死の抵抗で時間がかかり、疲労が重なり戦闘後は身動き不能な状態であった。旅の疲れ、早朝からの闘いで疲労困憊に陥ったのである。

また鶴翼の陣の兵士達は連絡網をつくるため、橋作りなどの作業をしたであろう。これまた丘を登ったり降りたり慣れない作業で疲労が出始めた頃であった。なにしろ今川軍は温暖な平地で暮らしていた兵士であるのことも原因の一つだ。

信長の突撃は午後の二時頃であった。あゆち潟の干潮時に合わせて決めたに違いない。未明から動いていた今川軍に、もはや余力がなかった。結局、戦いは義元の本陣旗本一千と、信長軍二千という仕儀になっていた。

つまりは逆に、信長が有利な戦いという局面になった。信長はここまで読みきっていたと思う」

黙って聞いていた北野は館長にたずねた。

「では義元はどうすればよかったのですか」

館長は続いて語った。

「今川軍には太原雪斎という軍師がいた。京都建仁寺の僧侶で義元の教師に招かれそのまま軍師になり活躍した人物だ。この戦いの五年前に死去している。彼が健在であったら信長は勝てなかったとも言われている。

義元の本陣は、敵陣に近い桶狭間ではなく、もっと後方の鎌倉街道あたりに置いたであろう。信長の付城は逆に封鎖して日干しにすればよかった。そして丹下砦の東側丘陵地に五千人の軍を配置し信長の出陣を牽制すればよかった。

手間と損害をこうむる砦の攻略はできるだけ後回しにし、信長軍を破ることに集中すればよかった。信長が篭城するのであればそのまま行軍して熱田白鳥湊を抑えればよかった。義元はまんまと信長の術中にはまり、あえなく去っていた」

館長の話に二人はしばらく黙っていた。