人間を入れる抽斗(ひきだし)。生活を日々の感情を入れる抽斗。腹圧、腹圧、と心で呟く。アキレス腱を伸ばすようにして、脇見せずに歩く。ポストに投函するたびにポストのなかの空洞に落ちる乾いた音がして、広告紙を抱えた左腕が軽くなっていく。
けれども、アスファルトから立ち昇る湿気と雲間からの日差しがせめぎ合って、ガラス容器に閉じ込められたみたいな気分だ。あの心地良かった五月はもうどこにもない。
白鳥さんの庭のハンモックで過ごした時間、バス停の出来事。記憶の中にしっかりと埋め込まれてはいるけれど、もう随分前のことのような気がする。歩いてはわずかな日陰に入りながら、ほんの一涼を求めた。
やけに疲れて、ポスティングだけで五日間が終わり、月子は眠りこけた。夢の続きのような無音の朝が訪れる。鳥たちはまだ秘めやかに囁きあっている。カーテンの隙間から水で溶かしたような光が届き、微かに旋回する音がし、やがて蝉がざ行で鳴き始めた。
精巧に作られた精密時計のような正確さで、夏の扉が開けられたのだ。蝉の楽団たちの騒々しい演奏だ。シャーシャー、ジャージャージャー。クレッシェンドがかかり、次第に大きくなる音。これ以上ないくらいマックスの音量になると、今度はそれが徐々に小さくなりデクレッシェンドがかかり弱々しくなりやむ。しばしの静寂。
すると今度は少し違う方角から、シャアシャアと聞こえ、また違う方からのシャアシャアが被さる。あちらこちらから、輪唱が波のように押し寄せる。
太陽はまだ真横から射している。隣の屋根を超えて、バルコニーの手すりを照らし、部屋の中まで幾筋もの束になって光が届く。
仲の良い老夫婦が暮らす隣の部屋から、リーンと仏壇のおりんを鳴らす音がする。蝉の声が読経となる。極楽浄土ってこんな感じだろうか。月子はまだ布団の上にいて、蝉たちの奏でる読経のシャワーに耳の奥がこそばゆくなる。
小指の先で耳の中をほじると、爪の先に芥子粒くらいのかさぶたのかけらが出てきた。自分の体の一部であった小さな欠片を人差し指に乗せてしばらくぼんやりする。
【前回の記事を読む】バス停で見た虫。気持ち悪さと正体を突き止めたい衝動が五分五分で、迷いながらついに…