以後この執筆体制は変わることなく、一つの作品完成に数年を要する寡作の作家になることを余儀なくされるのである。〈偉大な芸術は科学的で非個性的なもの〉〈芸術家は自然における神の如く作品に自己の姿を見せてはならない〉という客観主義を貫き、その身を芸術に捧げる生涯となる。
しかし〈書く事〉は喜びであると同時に〈ペンが重い櫂(かい)のようになる〉苦行となって彼を苦吟させた。やがて20世紀になると彼が唱えた〈何についても書かれていない小説〉〈ただ地球が浮いているように何の支えもなく文体の力だけで自立する小説〉をめざす新しい文学者達(ヌーボーロマンの担い手達)に師と仰がれ再評価されてくる。
が、生前写実主義の巨匠に祭り上げられた時も、彼のめざした客観的で科学精神に則って創作された同時代の作品を傍らに、若き日浴びたロマン主義精神を忘れる事はなかった。
『ボヴァリー夫人』の辛い世界から解放されると古代カルタゴを舞台とした『サラムボー』で夢と幻想の世界を描くことにする。しばしこの忌まわしい近代の社会を忘れるために。
ところで、あなたは生物学的にあるいはジェンダー的に男性だろうか、女性だろうか?モデル問題を煩(わずら)わしく詮索されてフローベールが〈ボヴァリー夫人は私だ〉と答えたエピソードは有名だが、それは作家が登場人物や作品世界全体に入り込んで同一化する状況として納得できる。
しかし、作家と作品のこうした親和関係とはまた別に、作家自身の中に男性でもあり女性でもありたいという両性具有(アンドロギュノス)の願望があったのである。彼だけでなく人は誰しも多少は自分と反対の性、あるいは両方の性を持ってみたいという、密かな願望を隠し持っているのかもしれない。
フローベールの作品世界にはこの両性具有的テーマが隠されていて、それは今読んでも極めて現代的な視点で大変面白い。