「心配せずとも長安に戻って来る」
お婆の顔は石の凹凸に溶け込むように消え去り、響くような声が耳元に残った。石の発光も蝋燭の火が潰えるように薄れていった。
「御酒の支度が整いました」
庭石に顔を向けたまま、呆然と立ち尽くす李徳裕の背に声が掛かった。だが、何も聞こえぬかのように李徳裕の目は中庭の太湖石に向いたまま、表情の変化もなく、小指の爪先だけが微かに揺れた。
「閣下……お酒が……」
劉氏は交わす言葉も見付けられぬまま、後ろに控えて膝を突き寂し気に顔を伏せて李徳裕の言葉を待った。
「任地替えになった。暫く都を離れる」
李徳裕は居室の奥へ向かって歩き出したが、一瞬にして劉氏の目の色が驚きと寂しさの入り混じったものに変わった。
劉氏は李徳裕の正室、誰もが美しいと認める麗人、物静かで感情をあまり表に出さぬ性格であり、徳裕が二十一歳の時に娶った女性だった。
「誠のことでしょうか」
「穆宗が崩御した今となってはいたし方ないのだ」
「お屋敷には何時までいらっしゃることが…………」
「遅くとも明後日には長安を出なくてならぬ」
「えっ、そんなに早いお発ちなのですか」
深々と椅子に座った李徳裕が「酒を!」と、盃を手にした。
【前回の記事を読む】見違えるほどの輝きを放つ姑。李徳裕は目が離せず人払いをして…