驚きの顔を向ける春鈴を残し、一人居室へ向かった。途中、中庭に面した廊下を歩いていると、何所からか声を掛けられたのではと思え、何気に周囲を見回した。

目が庭の中程へ行った時、李徳裕の背筋に冷たく震えが走った。そこは奇岩太湖石が見える場所、石からは仄白い光が発せられ、老婆が石に乗り移ったかのようにこちらを見ながら笑い掛けていたのだ。

「驚くことはない、このお婆、変幻に形を変え、何処へでも行くことができるからな」

息を飲んで立ち止まり、石の顔に釘付けになった。そこには西市で出会った妖怪のようなお婆がいたのだ。

「浙西は、ここよりは暖かく、飯も美味いぞ」石の口許が動いた。

「なぜ知っている」

「長安に居たいのか」

「決まっているではないか」

「このお婆には其方の全てが見えるのだ」

「見え透いた戯言など、聞く耳を持たぬわ」

「まぁ、そう熱(いき)り立つな、其方の生涯、浮き沈みの繰り返し、この程度のことで弱音を吐くようでは、先が思いやられる」

「其方は石の妖怪か」

「このように綺麗な肌のお婆が石に見えるか? 妖怪に見えるか……こんな親切な妖怪がいるはずがなかろう、その程度のことも解らぬか……羊はまだ充分に残っている。ゆっくりと浙西で鋭気を養い楽しんでくることだ」

「お婆に儂の何が解ると言うのだ!」

「落胆せずとも其方の余命はまだまだ長い、良いことも巡って来るわ」

「落胆などしておらぬ……」