名古屋では医者の荷兮宅に泊り、二か月滞在、荷兮の連中と俳席を持った。野水、杜国、重五、みな商家の若旦那衆であった。特に杜国に心をひかれた。

この二か月の俳席は、後日、芭蕉七部集の第一「冬の日」に収録され、出版され、蕉風確立の第一歩となる。この年は伊賀で越年。

翌年四十二歳 奈良二月堂のお水取りへ。

水とりや氷の僧の沓の音

奈良から近江へ。ここで、千那・尚白という既にベテラン級の実績のある俳人を弟子に迎えた。三月下旬、土芳に逢う。土芳は二十年前、まだ幼い少年の頃、この子の父の頼みで、俳句の手解きをした縁であり、後年蕉門十傑として、師の死後、「三冊子」として芭蕉の俳論を忠実にまとめ、後世の芭蕉研究の貴重な資料を残している。

その出会いの句

命二ツの中に生たる桜哉

四月末、木曾路を経て江戸へ帰着。この旅は、蕉門立ち上げの礎となる、収穫の多い旅となった。芭蕉自身の句も感じたままを句に表現する自然詠で、技巧にみちた談林派全盛期のこの時代にあっては新鮮に映った事であろう。

翌貞享四年 四十三歳、正月

古池や蛙飛込む水のをと

其角の言として、「蛙とびこむ水の音」は、最初は、無我の境地の表現として、佛頂和尚に詞法したもの(禅問答の答)と伝えられ、また、この答で、僧になる資格を得た(僧にはならなかったが)ともいわれている。

後に〝古池や〟の上五をつけて、有名な句になったのは、周知のこと。私は田舎育ちで、蛙の水に飛びこむのを幾度も目撃しているが、驚かせない限り、水音は立てない。有るとおもえばある、無いと見れば無い。

上五〝古池〟は、後から付けたと云われており、写生の句ではない。後年の「猿蓑」にも収録されていない。それは別として、蛙を主題の句作は蕉門下で盛り上がり、「蛙合」となり出版された。

去来、芭蕉庵来訪。入門。この年正月、芭蕉とかねてから文通のあった去来が、其角と嵐雪に案内されて芭蕉庵を訪れた。芭蕉より七歳若い。

実家は宮廷に出入りを許される程の医師。普段は実家の手伝いをしている。後年、蕉門旗揚げの旗印となった「猿蓑」を、丈草や凡兆と共に編集・出版した。

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