先生の数あるユニークな宿題の中でも忘れられないのが、夕日を眺めて何色見えるか数えて、その見えた色を連絡帳に書き出してきましょうというものだった。ベランダにはだしで飛び出して行って、一生懸命目を凝らして色を見ていた。薄いピンク、オレンジ、黄色、薄茶色、あ、クリーム色もあるな。一生懸命書き出した。
先生が宿題に出さない日も毎日毎日それをやって連絡帳を持っていったら、先生はまた目を細めて笑顔で「素晴らしいわね」と言って花丸をくださった。
この夕日を眺めてその色を書き出すのはいまだによくやっているし、わたしが先生になった今、子どもたちにも宿題としてよく出したりする。この話を別の先生にしたら、なんて素敵な宿題!と共感し、わたしも子どもたちにぜひ出したい、と言ってくださったりもする。
日本の公立小学校にはなかなかいないタイプの貴重な先生だと、本当に心からそう思う。先生と過ごした三年生の二学期間はあっという間だったけれど、わたしのこの人生にたくさんのいい影響を与えてくださった。みんな違って、みんないいんだ。
日本の当時の社会が今以上に右へ倣えが厳しくて、生きづらさしか感じられなかったわたしが、希望を持たせてもらった瞬間だった。
その後、先生は任期を迎えてその学校を去っていった。そのあとは、世界一周旅行に旅立っていった。とことん先生らしいなと思った。
ちょうど早苗先生が、ネパールを通過した頃に一通のハガキが学校に届き、担任の先生が読んでくださったのを覚えている。
あの時ほど先生が懐かしく、恋しくて、涙があふれたことは後にも先にもないのではないだろうか。先生にまたいつか会えるかな。会いたいなと思わずにはいられなかった。
あれから三十年近く経ってある日ふと、先生に連絡を取りたいという思いが強くなりすぎて、必死で先生とつながれる方法を考えた。三十年前、パソコンも、携帯もない時代だった。今はインターネットというものがある、SNSでつながれるのではと思い、必死で先生の名前を探した。でもどうしても見つからなかった。
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