ウィットラムは最後に、暗示にもとれる言葉を呟くように言った。
部屋を出ると、僕はウィットラムに教えてもらった宿に向かった。政府直営の近代的な造りのホテルの前を過ぎると、左に曲がる目印となるヒンドゥー教寺院がある。
その角を曲がってしばらく進むと、右手に壁全体をオールドローズの色に塗られた建物が見えてきた。きっと、ここが教えられた宿なのだろう。落ち着きと気品のあるその色は、インド文明の持つ重みと誇りを感じさせていた。
なぜかそれを見た時、インドに来たという実感が僕の胸に初めて湧いてきた。その中には、ずいぶん遠くまでやってきてしまったという感慨と、不安や心細さのようなものも含まれていた。
道に面した宿の敷地に沿って、薔薇など幾種類かの灌木で作られた生垣があり、その中ほどにある木のアーチにはつる性の植物が巻き付いていて、白いペンキで「SWISS COTTAGE」と文字が書かれている。
少し緊張しながらアーチを潜(くぐ)る。インドの心の旅がここから始まる予感がする。敷地に入って僕は足を止めた。目の前に、小さな宿には不釣り合いなほどの大きな庭があったからだ。そこには多くの花と樹木が植えられていて、芝生には幾つかのアンティークな椅子とテーブルが置かれている。どこかヨーロッパの田舎町を思わせる庭だ。
それとは対照的に、庭の一角にある屋根と壁が赤茶けたトタン造りのシャワー室と、日本の小学校の校庭にあるような、コンクリートの水飲み場がイギリス風の庭に溶け込み、どこかホッとさせる不思議な空間と雰囲気を醸し出している。
建物に入るとすぐ右側に、受付を兼ねたやや広い部屋があった。板敷きのその部屋には壁際に本棚があり、多数の英語の本や雑誌があった。
その中に一冊だけ日本の小説もあった。この宿に泊まった誰かが置いていったのだろう。本棚にあるその本は、山本周五郎の『さぶ』という小説だった。
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