2 清瀬隧道(きよせずいどう)
現在、村道として使用されており、父島船客待合所背後の都立大神山公園の中にあります。
大塚秀輝(以下、「大塚」という)の赴任時代、住まいの清瀬職住から支庁までの通勤時に自転車使用の場合、近道的に照明はあるにしても少々薄暗く感じつつ使わせて頂いた道路の一部でした。写真のとおり、築造後、年月は経過して周囲の緑と一体となっていますが、それは見事なトンネルです。二見桟橋の船客待合所側に都道が出来るまで、島の方の生活用道路となっていました。
同 内容には、「諸元:長一九〇・五メートル、幅五・五メートル、完成年:昭和十四年、ランク:C、評価情報:坑口内側にC造の張出し壁=空襲時に防空壕として使うため」との記載となっています。
戦時下では、防空壕として隧道の両側をどのように覆ったのでしょうか。写真でも明らかですが、入って直ぐに張出し壁が存在し即時的に外部と遮断出来るような構造となっていたのでしょう。その遮断壁は、現在は存在しませんが頑丈な開閉可能な扉があったのでしょうか?
当時の記録から、艦砲射撃と共に多くの米軍の艦載機が頻繁に父島に来襲し、至る所攻撃が加えられていたようです。
そして戦時下、強制疎開の際など多くの人々が、資料によれば一時期この中で過ごされ悲惨な生活を余儀なくされていたという記録が残っています。清瀬隧道は、戦跡の一つとしても貴重な施設なのです。
3 境浦堰堤(えんてい)
有名な「境浦沈船」(当時)背後の山の中にあります。現在、水道水のためのダムとして村が管理し、小さいながらも満々と水を湛えています。このダムは、村の戦跡調査報告書では昭和十五(一九四〇)年頃、旧海軍が艦艇への給水と重油の補給のため、現存する清瀬の重油槽の建設に引き続き建設したもので、約三〇〇〇m2の水を貯めて、堰堤直下に設けた濾過施設で浄水したとあります。
幾度となく戦跡調査の際に、全景を色々な角度から観てきていますが、今一度、濾過施設を含め間近でじっくりと観察したいと想ったりしています。
同 内容には、「諸元:高約一〇メートル、長二五・二メートル、完成年:昭和初、ランク:C、評価情報:金網を代用した(?)バットレス付きダム/海軍が伊豆七島・小笠原諸島に設置した水道ダムで唯一現存」との記載となっています。