Ⅰ レッドの章
軍港跡の町
電気製品(電化製品ではない)は電灯、ラジオ、電熱器のみ。
〝冷蔵庫〟と称していたものは現在六十代半ば以上の人は〝ああ、あれか〟と子供時代を思い出すことだろう。ブリキ板を張り付けた木製の箱の中に、毎日氷屋が運んでくる氷を置く。夕方になると下の水受けに溜まった水を捨てるといった作業を毎日繰り返す。
風呂はあの『東海道中膝栗毛』の弥次喜多が下駄を履いて入浴したという、関西風の五右衛門風呂よりは幾分上等の木製の湯舟だった。
もちろんボイラーなんてない。風呂の焚き方は大体どこの家も同じで、台所のかまどの横に勝手口があり、風呂の焚き口がある。焚き口に薪を入れて焚くのだが、火事になるといけないので焚き初めは見張っておかなければならない。
それは大抵僕の仕事だったが、一度焚き口に座っていたら地震があり、怖かったのを覚えている。丁度僕たちがこの町に来て間もない時のことで、どうやらその年の六月末の福井地震(死者三、七六九名)の余波だったらしいが、その時はそうとは知らなかった。
楽しみの少ない時代だったからラジオは大事な存在だった。戦争中京都に置いていたお蔭で焼けずに残った古いラジオ兼蓄音機を父は大切にしていた。木製で縦型の戸棚くらいの大きさがあり、下がラジオの受信機、上蓋を開けると蓄音機が出てくる。
父は竹針を丁寧にナイフで削って分厚い七十八回転レコードを鳴らしていた。戦前一世を風靡したフルトヴェングラーやケンプ、シャリアピンやカルーソーのレコードを聴いていた父を今でも思い出す。
僕は新制の中学校二年に編入した。
通学路は遠く、橋を渡り畑の中を通り抜けて行く。スクールバスなどというものはもちろんない。だがあのころの子供は足が丈夫で、片道三十分から一時間の道のりを当たり前のように歩いて学校に通ったものだ。
僕の通う中学と妹の小学校は方角が全く別で母は送り迎えを心配したが、近くに『カモメ荘』という文化住宅があってそこに妹と同学年の女の子がいたので誘い合って学校に通うようになった。その少女の父親は灯台守だった。
級友たちはほとんどが農家の子供だった。僕は警察官の息子と並んで少々異色な存在だったかも知れない。