学校での生活もまた甚だ原始的だった。当時の我が国の衛生状態は悪かった。級友たちの多くは青洟(あおばな)を垂らしていたが、父は〝栄養失調のせい〟だと言っていた。顔には〝はたけ〟と称する皮膚が地図状に白くなりカサつく皮膚病をこしらえていたものだ。
敗戦直後の級友たちの服装も汚れて穴が開いていたり、擦り切れてみじめだったが、戦後五年も経つとややましになってきて、新入生たちは母親が何とか工面した真新しい学生服で登校するようになっていた。
それでも戦争の後遺症はまだ大きく、貧しさとひもじさは完全には拭い切れていなかった。僕らが鶴前に行った初めのころはまだ食糧事情が悪く、乾パンの配給に並んだりしたが、それは固くて煉瓦のかけらみたいでひどくまずいシロモノだった。
虱(しらみ)を頭にわかしている子もいた。
定期的に一列に並ばされて体中にDDTをまかれたが、そのころの我が国にレイチェル・カーソン女史(注:アメリカの環境学者。著書『沈黙の春』でDDTの害を告発)のような人物がいるわけもなく、誰も何とも思わなかった。
また回虫をわかしている子がほとんどだった。かく言う僕も妹も回虫をわかした。マッチ箱に便を取って提出するように言われたり、虫下しを飲まされたものだ。
僕らはまずい米軍お下がりの脱脂粉乳も、列をなしてシャツの中にDDT散布器を突っ込まれて白い粉をまかれることも、検便用マッチ箱の提出も、虫下しを飲まされることも黙って受け入れた。まあ文句を言っても始まらないというのが現実だった。
一九四〇年代後半の鶴前市は、戦前の海軍の城下町としての、海運業盛んなころの面影は最早残っていなかった。転校した中学で日本は負けたんだと思い知らされる出来事があった。
ある時先生が僕らを港へ写生に連れて行った。
でも写生するものといったら湾の中に赤さびに覆われた腹を見せて横たわる船の残骸、対岸の海軍工廠(こうしょう)の鋸屋根、黒蛇がのたうっているような迷彩ペイントの施された不気味な黒ずんだ壁、そして窓ガラスが吹き飛んで破れ放題の工場跡くらいだった。
あのころの鶴前の建物という建物は例外なく、黒蛇の迷彩色が施されていた。当時の日本には無用となった、湾の中の沈みかかった船を引き揚げる余裕も活気もなかった。何かさびしく、何か恨みがましくて〝つわものどもの夢の跡〟と呼ぶにも余りにうらぶれていた。この光景は当時のこの町そのものを表していたと言ってもよかった。