三 バザー・ナーダ(聖書の木を売る店など)
邯鄲老人の右手前にはいろんな小さな瓶が転がっていて、その中から、老人は、何かでたらめに一つ選んで、ぼくの方に差し出した。その中には小さい錠剤状のものが何十粒か入っているのが見えた。
「これはの、最近わしの夢工場で作った試薬品でな。ニンニク卵黄に一個ずつ夢が混ぜてある。これを毎朝一錠服用すれば、三十日後に、たったの一回ではあるが、花になる夢を見ることができる。
どうじゃの、お主。一つ、試してみなさるか。お主はどういう花が好きかの。とりあえず、十種類の花の夢を作ってみたがの。そうか、梅か。わしも梅が好きじゃ。ほれ、ここに、白梅の花の夢の試薬品がある。これを進呈しよう。
一カ月服用すれば、その一カ月後に、お主は白梅となって、咲き匂い、ウグイスなどの鳥たちを誘い、遊ばせることができよう。お主はこの国は初めてかの。そういう顔をしておるが、どうかゆるりと遊んで行って欲しいものじゃ」
ぼくは去りがたい思いにまだ捕らわれていたが、その場を離れた。ぼくはまだぼくにさえなっておらず、そこに達することさえ叶わなかったから、梅の花などになっている余裕はなかった。
いくつかの店を通り過ぎて、右側に曲がった角に「空屋」と書かれた一軒の店の前に出た。何となく心引かれるものを感じたので立ち止まり、店を覗いた。
白い無精髭、鋭い鼻、への字に曲がった口、そして凹んだ頬をしたごま塩頭、どこか上の空でうつけた眼差しをした、ゴッホの描いた自画像に似た老人が、紺の作務衣を着て、店の中央にむんずと座り込んでいるのである。
もちろんゴッホよりははるかに年老いた、言わば、ゴッホ老人を思わせた。その回りには、何か化学の実験室のごとくおびただしい数の瓶が置かれてあって、一つ一つに中のものを示す文字が書かれてあった。
「ここは空屋(そらや)でござんしてな」
老人はぼくの存在に気が付き話し掛けて来た。しかも、ゴッホの描いた自画像に似たゴッホ老人が江戸の呉服屋の旦那の使うような口調で話し掛けて来たので、いささかびっくりした。
「世界でも珍しい、いや、わしの店以外にはただの一つもない、世界でただ一つの店と言ってもようござんしょうか。それでは論より証拠と申します。一つ、ご紹介申し上げましょうかな。
さあ、これをご覧なさい。この小さな透明のガラス瓶、何も見えないでござんしょう。が、実は、この中にはですな、パリの空気が入っとるのです。デュシャンと申しまして、まあ、けったいなフランスの画家がおりましたがな。
そのお人が、パリからの土産と称して、ニューヨークの友人に持って帰った珍奇な土産物でござんすわ。それが今伝わり伝わって、ここに鎮座ましましておる次第でござんす。さあ、これを耳に近づけてみなされ。かすかに聞こえて来るんでござんすよ。
シャンソンですわ。「パリの空の下セーヌが流れる」とかいう歌が聞こえて来るんですわ。デュシャン一流の、機知に富んだ、洒落た一品でござんす。