☆2儀鳳暦序論

儀鳳暦は唐の麟徳2年(665年)に李淳風が造り、開元16年(728年)まで行われた定朔暦である麟徳暦の日本版である。これが儀鳳暦と呼ばれるのは、儀鳳年間(676~679年。天武5年紀~同8年紀に当たる)に新羅に伝わり、ついで日本に伝えられたからという。

麟徳暦は進朔法(朔が午後6時以降になる場合、翌日を朔とする法)を採用した暦法として知られているが、儀鳳暦は進朔法を採用していない。

唐で進朔法が採用されたのは、この麟徳暦使用中の景龍2年(708)年からであったとされる(細井浩志・竹迫忍2013年『唐・日本における進朔に関する研究』2010~12年度科学研究費補助金成果報告書)。従って儀鳳暦が進朔法を用いていなかったのは、日本が儀鳳暦=麟徳暦を輸入した時代にはまだ唐においても進朔法を採用していない段階であったためと理解されている。

儀鳳暦は1日を1340分、1太陽年を489428分、1平均朔望月を39571分とし(故に19年7閏月法には従わない暦法である。これを破章法という)、紀元前269217年の前年つまり西暦-269217年の11月中(24節気の冬至)が朔で、その時刻が0時0分、その干支指数が0 (甲子)であったとして計算を始める暦法である(儀鳳暦は麟徳元年・664年を起点にしてその269880年前の前年の冬至を暦元としている。従って西暦-269217年の冬至が暦元なのである)。

儀鳳暦は定朔暦であったが、これだけの定数があれば平朔法によって暦を造ることができる。儀鳳暦を平朔法で計算すると、元嘉暦の場合と同様に考えて、

   西暦a年の前年11月中(冬至)の干支指数T(a)は60を法として、

T(a)       =(57+868÷1340)+7028×a÷1340

従って、西暦a年正月中(啓蟄)の干支指数S(a)はこれに489428÷1340÷6 を加えて(60を法として)、 S(a)=(58+4196÷1340÷6)+7028×a÷1340

   また西暦a年の前年11月中の月齢TG(a)は

TG(a)    =(34201÷1340)+(14576×a÷1340)±(39571÷1340)×r     

(rは、これまで通り、平均朔望月を加減して全体を平均朔望月より小さい正数に納めるための数であり様々な数値を取る)

【前回の記事を読む】日本最古の暦「元嘉暦(げんかれき)」。持統天皇の代に使用された太陰太陽暦