ぼくのこと、覚えてますか

はじめに

幼少期は父親の仕事の関係で引っ越しが多かったと、親から聞いています。風景の記憶がある場所もありますし、周りの人たちと笑い合った記憶もあります。顔の記憶は曖昧ではあるとはいえ、色んな人とつながりがあったことだけは確かです。

しかし、幼い頃に遠く離れてしまうようなことがあると、もうつながることはできません。関係が途絶え、思い出だけにかわってしまうのです。私がその場所を離れて居なくなったのですから仕方がありません。でも、その場所は私にとっては思い出の場所です。私も一緒にいた、「私たちの思い出の場所」であってほしいのです。

定年を迎え、幼い頃の記憶をなつかしみつつ、ここまでどのように生きてきたかを息子たちに伝えたいと考えました。また、同時に、今後自分がどうなりたいとか、どうしたいとかということも再発見できるかもしれないとも思い、まとめてみることにしました。

幼少期

生まれ

わたしは、1回目に開催された東京オリンピックの少し前に生まれました。山口県の柳井駅近くの病院で生まれたと両親に聞いています。

中学1年の4月、母親の弟の結婚式に出席するために、両親と私は母の故郷福岡県に向かいました。その帰りに柳井駅を特急で通過する際、「あんたが生まれた病院、まだあるわ」と母親から言われ、車窓から母の言う方向を一生懸命見てみました。

駅構内の看板にさえぎられて、病院の様子ははっきりつかめませんでしたが、自分に関わりのある建物の入り口がちらっと見えたショットはいまも鮮明に脳裏に焼きついています。

私が生まれたとき、両親の住まいは、今は第3セクターとなった錦町駅近くであったようです。これも父に聞いた話ですが、山の中なのに映画館があったというのです。私は24歳の時、この地域をひと目見たいと思い、レンタカーで日本一周をしていたときに立ち寄りましたが、映画館があるというような雰囲気ではなかったのでちょっと不思議な気持ちになりました。