じいじになった私
♪音楽♪って何?
たちまちとはいかないが、徐々に高ぶりが特効薬でも飲んだみたいに鎮まりだす。全て取れてくれれば良いが、半分程度は取れるような感じである。飲める人はコーヒーでも啜りながら聴くと、さらにいいだろう。
このように音楽の効用は、薬に勝るとも劣らないところがあり、脳内物質のエンドルフィン(脳内ホルモンでストレスを緩和させてくれるらしい)をタップリと出してくれているように感じることもある。
つまり、音楽のジャンルを問わず、何でも車のハードディスクに取り込んでいると、感情の度合いに応じた選曲ができるということである。そのために選択肢が増え、その時の気分に合った曲が選べて効果も大きくなる。
結論として私の音楽観は、母の胎教で芽が出たことは確かであり、そこに原点があるといえる。そのために自分にとっての音楽は、生きるエネルギーを与えてくれるそれこそ転ばぬ先の杖のようなものであり、我が老人道をしっかりと支えてくれる良き相棒ともいえる。
世の中は絶えず様々な何らかの音に支配され、そのなかで我々は生きている。とりわけ私にとっての音楽とは、感情のコントロールまで委ねられて気分が解される。音楽は、心にいつも取り入れたい「新鮮な空気」のような存在となっている。
フケメンの戯言
老を生きる。老けるということが、どういうことか。老けることで何をしなければならないのか。答えは出せないかもしれないが、継続して老を考えることでないと道は開けずただの老けた人間で終わってしまうと、危機的意識が芽生え出してきている。
四十代頃までは、髪が白くなっても老を意識することは全くなかった。それが五十代になると、老に対する不安感が、如実なものになってきた。老けることは、一種の障害として、これから体に堅牢に築き上げられるような気もしだしてきたこともある。
朝鏡の前で自分に対峙すると、その見るも無残な老顔に、若い時分からこのようになるまでの経過時間の記憶がすっかり抜け落ち、急に老顔になってしまったように感じる。この心境は浦島太郎の玉手箱の話が思い出され、洗顔のたびに不安感が増幅されてきている。
「人間は考える葦である」は、多数の明言を残している著名なパスカルという人の言葉のようである。とにかく生まれて死ぬまで人間である以上は、何事においても思い悩みながら考え生きることが、人間の人間らしいことかもしれない。