生きているからには、生きている意味を問い続ける生き方をしたい。考えられることは生きている証でもある。このように考えるのは、老に対する抵抗意識が強くあるためで、何もなければ、生きる意味さえも感じないまま日々を過ごす殆ど空蝉(うつせみ)同様の醜態化した老人になるだけではないかと思っている。
老とはかなり生が複雑に絡みあった輻輳(ふくそう)したもので、しかも解こうとしても所詮解くことのできない老であるかもしれない。しつこいが、今の考えられる時間があるうちに納得感を得るまで名言に従いたい。
老いると体も精神状態も当然萎え衰える。老とは甚だ困ったものである。どうしようもない老であるが、老を意識しだしたのが、前述したように五十代である。もっと早くから意識高く向き合っていれば、焦ることもなかったのでは、と後悔の念も少しある。
まさか五十代より不名誉な禿頭席(とくとうせき)に君臨するとは思いもしなかった。社会には髪の毛の抜ける人と抜けない人がいる。先祖様方からの遺伝情報にそのカギはあると思うが、男性に特徴的なことで女性にはほとんどなく、これはホルモンの影響ともいわれている。
この点だけは女性が非常に羨ましい限りである。女性は髪の毛が薄くなってきても自然な髪形でウイッグによる装いができる。もちろん男性用もあるが、見るからにそれと分かり、夏場はとても大変な感じがするので、自分は専ら帽子でカバーしている。
今後は、IPS細胞かES細胞の研究により、頭皮に毛根細胞の再生が行われるようなものでもできればと、水泡に帰するとは思うが期待をしているところである。しかしIPS細胞は、ようやく網膜剥離の治療や心筋などの再生医療に力が入ったばかりで、禿頭衆の期待値を上げるようなことにはなりそうもない。
このように老は、まず首から上の頭(毛髪)や顔(シミ・皴・白眉毛・瞼の垂れ等)に外見的に表れる。本当は五体全てに表れてくるわけだが、その人を代表している顔、取り立てていうまでもなく、服などで覆われていない部分に老を見ることになる。
しかしこのことには、いくら取り繕っても抗うことは殆どできない。カツラをつけ化粧をして着るもので装っても、その人のその人となりが顔に出る。誰しも老に対するわずかな抗いをその人の価値観で、老身をオブラートする。