じいじになった私

フケメンの戯言

自分に置き換えると、残存する白髪を染めることに何年も費やしていた。その間も顔のシミなどは増えているような感じはしていたが、そのことよりも髪の毛にエネルギーを注ぎ続ける日々であった。しかし、この頃はこの程度の抗いが、最善の選択肢でもあった。

このような個人的満足感の充足に、個人的価値観で継続していたが、この無駄と思える時間があったからこそ、その後の気持ちの切り替えができたということになる。つまり、外面的なオブラートよりも、後退化する老身には内面的充実度を高めることこそ必要と。

内面的な繕いで、老に向き合い老を生きることに繋がるような気がしてきた。安易に言葉だけを玩ぶものではないが、これからは質実を少しでも高める生き方をしたい。希望としては質実に剛健が備わるような老に向かいたいと考えるようになった。

年相応な装いをしている人を見かけると、その人なりの歩いてきた人生を勝手に想像してしまう。良い生き方をしてきた人ではないかと、かっこ良さと同時に、称賛したい気持ちまでも湧き上がってくる。このような人には、生き方の見本を見せてもらっているような気分にもさせられる。

鏡に写し出された容姿は、現実問題として大きく切り捨てることをしないと前に進むことはできない。至極当たり前なことを理屈で説明するまでもなく、納得しない自分がいたことは、あまりにも外見的なものに拘(こだわ)り過ぎていたという性格そのものが邪魔をしていた。

諦めが悪いのは昔から筋金入りで、このしつこさに被害妄想も伴って、いろいろなことによく蟻地獄にはまり込み身動きできなくなる。いい加減にしたいが、脳裏に染み込んでいるために、どうしようもない。しかし、このような心象も一晩寝ると和らぐようになり、年を重ねてきたことで救われている。

このようなわずかながらでも心境の変化を起こさせたものは、平凡な暮らしのなかでも多少の経験を積みながら生きてきたということかもしれない。重要なことは、今生きているという大きな事実であり、内面的な充実を図りながら何をしていくのか、ということである。

これまでにも、退職後の老後の生き方としてヒントを探そうと、新聞やテレビなどの情報をもとに、いろいろな人のいろいろな生き方を見せてもらったが、基本とするところは還暦を境にするまでもなく、その人がそれまでに携わった生業をそのまま続けている人が多いことに気がついた。

それは、一般的に生涯を現役とする農業、林業、漁業を始めとしてフリーランスなどの職業に従事する人たちは、生活できるかどうかは別として、希望すれば生涯にわたりそのまま仕事を継続できる。