とはいえ、それが盛んに行われる様になったのは、戦乱も収まって世の中が比較的安定し、安全な旅ができる様になった江戸時代半ば以降の事。そもそもは、17世紀半ばの元禄時代前後に土佐(高知県)生まれの真念という聖が、お大師様への信心厚く、その足跡をたどるため生涯20回余りの巡拝をしたのが始まりです。

真念は、当時まだ山間の細道、場所によっては獣道同然だったへんろの道筋を整備すると共に、霊場巡りのありがたさを広く世に説きました。へんろ道に連なる88カ寺(札寺)それぞれの番号を定めたのも真念で、これはいわゆる大厄の年(子ども13歳、女性33歳、男性42歳)を合計した数字。

こうした行いにより、真念は今も「四国へんろの父」と伝えられています。以後、八十八カ所巡礼の信仰がおおいに盛んになると、18世紀の享保年間には、それまでの特別者(僧侶・修験者等)から庶民の間にもへんろの信仰が広まりました。

その風習は以後長く続き、つい60年程前の昭和30年代までは「乞食へんろ」と呼ばれる職業的なへんろも数多く、広い巡礼域内が彼らの生活域となっていたものです。

この間の経緯については、1513(永正10)年に書かれたという第80番・国分寺本堂墨書銘『四国中辺路・同行只二人納申候』や、1653(承応2)年の僧・澄禅『四国遍路日記』、さらには真念自身による1687(貞享4)年『四国邊路道指南(みちしるべ)』に書かれています。

 
 

また、それぞれの札寺については、へんろ寺番号と寺名・御本尊・真言・願意・所在地名、あるいはお寺の特性等個人的な所感を、この後の第二章にまとめてありますので、ぜひご覧になってみて下さい。