(三)
イチローがアメリカ大リーグに憧れの念を抱き始めたのは、日本のプロ野球選手になって暫く経ってからに違いない。
何故なら小学、中学、高校時代までは、ただひたすら日本のプロ野球選手になりたい一心で、日夜練習に励んできたからである。プロの選手になるまでは、多分大リーグに入ろうなどとは夢にも思っていなかっただろう。
高校(愛工大名電高、先輩に元巨人の工藤公康投手がいる)卒業間際でもドラフトに指名してくれる球団があるかどうか大変不安だったらしい。甲子園に二度出場していても優勝の経験はない。小、中、高を通して投手や打者としてかなりの実績はあるものの、各球団のスカウトがどのあたりまで評価してくれているかは全く未知数である。
確かに高校に入って後半のころには二、三のスカウトから打診があり、指名してくれそうだったが、それは投手としてであり、打者として見てくれているところは少なかったようだ。
その頃のイチローは、外面上プロの投手として耐えるだけの体力にはまだ少しひ弱さが残っており、各球団のスカウトもその点で、若干二の足を踏むところが見受けられた。
本人は打者として指名して欲しかったようで、現に名電工時代のイチローは、対外試合での打率で5割1厘の実績を残し、打率以外でも長打、得点、打点、盗塁とあらゆる部門に抜群の数字を上げている。ここでも既に攻走守の実力は遺憾なく発揮されていたのである。それだけにイチロー自身もこの実績には相当自信をもっていたに違いない。
しかし、ドラフト当日の結果は、打者として唯一オリックスが4位に指名してくれただけだった。たとえ4位でも、自分を必要としてくれている球団があったということが、彼をオリックスへの入団に踏み切らせた大きな理由となった。
人は誰でも団体にしても個人にしても、自分を必要としてくれていると解った時、無二の喜びを感ずるものである。このことがイチローをして、この球団の入団にそれほど躊躇させなかったのであろう。あの時、他にも指名球団があったとしたら、かなりの迷いが生じたに違いない。
こうした状況から、この時期にはとても大リーグへの道は考えも及ばなかっただろう。日本のプロ野球の道さえまだはっきり定まらなかった時だから。