皿のほうから、どうか手に取って見てほしい、と主張しているような気がした。きっと皿が主人公になりたかったのだろう、といまにしては思う。江戸時代前半に芽吹いたといっても、芽吹くためには種子があったはずであり、その種子が地面に落ちるためには、別の大きなコメツガの木があったはずである。
こんなことが自然界では、何百年も何千年も何万年も何億年も繰り返されている。いのちが連綿(れんめん)として受け継がれているのである。
それに比べれば、人類のいのちの歴史は、まだまだ浅い。それなのに、生命の進化の頂点に立っているかのような、妙なプライドをもっている。浅ましいことであり、恥ずべきことである。
地球は、現在のところほかの星には確認されていない「いのち」を育んでいる、稀有な存在である。いま私がいのちをいただいて生きているということは、とてもふしぎなことであって、決してあたりまえのことではない。このことをだれもが自覚して生きるのなら、いじめや虐待、あるいはいのちの奪い合いなど、起こるはずがない。
一度きりのいのちを精一杯生きていくことの尊さを、目の前の木の皿から学んでいる。毎日、食事の時間にタイムトラベルできるふしぎさも味わっている。
第三章──ふるさと島根のふしぎ
私が住んでいる島根は、「全国で四十七番目に有名な県」だそうだ。よく間違えられるのは隣の鳥取県との位置関係であり、「島根は鳥取の左側です」という自虐ネタがある。
以前、全国の私立幼稚園・認定こども園を対象に、あるアンケート調査があり、その結果が冊子にまとめられた。そのなかでわが園から提出した写真が、中国五県で唯一掲載されたことがあった。最後のページに掲載園の名前が紹介されていたけれど、そこには「鳥取県」と印刷されていた。
そんな島根にもたくさんのふしぎがあり、そのなかからいくつかを紹介してみることにする。
島根は大きく分けて三つの地域からなっている。出雲(いずも)と石見(いわみ)と隠岐(おき)である。