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千葉工場での日々
上京が転機に
よし、千葉へ行ったら心を入れ替えて、真面目に働こう。場所が変われば環境も変わる、周りの仲間たちも変わる。今までの自分を知る人は少ないから、もう一度、生まれ変わったつもりで一からやり直そうと心に誓ったのだった。
川鉄化学分析課で働く
千葉工場は、川崎製鉄が川崎重工から鉄鋼部門を引き継ぎ、昭和二十五(一九五〇)年の会社発足の当初から、初代社長である西山弥太郎が操業を目指し、執念で築き上げた工場である。鉄鋼メーカーとして高炉を持つ鉄鋼一貫製鉄所の夢を掲げ、大規模な工場の新設を目指し、その白羽の矢が立ったのが千葉であった。
社運をかけて新たに建設された千葉工場は、当時としては最新の設備が導入され、その規模も葺合工場とは比較にならないほど大きく、立派だった。
神戸から異動した私たち社員は気持ちも新たに、会社が用意してくれた社員寮に入り、通勤することになった。
工場は京葉線の蘇我駅から徒歩で七分ほどのところにあった。しかしその敷地面積は広大で、正門を入ってから、自分が働く事務所まではなんと徒歩二十分もかかる。
敷地内に大きな工場が何棟もあり、鋼板を主体に、熱延・冷延鋼板、めっき鋼板、厚板、鋼管などの生産を行っていた。さらに事務棟や食堂などもあり、そこはまるで川鉄村という一つの自治区のようであった。
千葉工場では、私は川崎製鉄が昭和三十四(一九五九)年に設立した川鉄化学株式会社の分析課に配属された。神戸時代とは打って変わり、コークスやベンゼン、硫酸など工場で使用する原料の分析をするのが主な仕事だ。
私は最初、オーストラリアから貨物船で運ばれてくる石炭の分析を任された。山積みになった石炭からもうもうと埃が立ち、大きな音が鳴り響く場所での作業は大変な苦労であった。
そのうちに他の分析も任されるようになった。ビーカーやフラスコを使い、いろいろな試薬で検査、分析する作業はとても気を使うものであった。
試薬の中には危険なものも多く、ずっと作業を続けると頭がクラクラとするときもあった。中には体調を崩して入院する者もいたから、けっして良い労働環境とは言えなかったのであろう。
それでも製品の品質を守るため、作業所内は昼も夜も、夏も冬も、常に室温を二十五度に保たれていたため、作業をするには快適であった。自分は恵まれた場所で働かせてもらえていると思っていた。
葺合工場で高温を発する鉄板に向かって、汗をかきながら作業をしていた頃に比べれば、天国である。また千葉工場の他の工場で働く仲間の工員からも、いい場所で働いていると羨ましがられたものである。
浮気心でバーテンダーに
千葉工場へ来てからは、真面目に働くことを心がけた。無遅刻無欠勤を貫いた。人が変わったような真面目な働きぶりである、と自分では思う。