普及の工夫と苦悩 太田雄貴
北京の直後は大会が開催されれば記者も増え、次は2012年のロンドン五輪へ、と周囲の期待も自ずと高まる。しかも北京では実施種目に含まれていなかった男子フルーレ団体もロンドン五輪では開催されることから、個人と団体でのメダル獲得、しかも銀を超える金メダルを、と期待が高まる中、まさに血のにじむような思いでアスリートとして邁進する。
その結果たどり着いたのが、北京に続いて今度は男子フルーレ団体で獲得した銀メダルで、その過程や8月5日の試合を振り返ればまさに〝奇跡〟と呼ぶべき快挙ではある。だが一方で、精魂使い果たし、奇跡を起こしてもなお金メダルには届かない現実に、太田は直面せざるを得なかった。
「ロンドンまでの僕は、命を削って試合をしているというか、心と魂を燃やしながらやっている。そういう感じだったんです。とにかく本気で世界一になりたかったし、五輪で勝ちたい、と必死だった。
だけど、それでも届かない。奇跡みたいなポイントを重ねて、銀メダルが獲れたこと、たどり着いたことは嬉しかったけれど、一方ではこれだけやってもダメなのか、という気持ちもあった。
正直に言えば、ロンドンで現役は引退しようと思っていました。でもそれぐらい思い残すことは何もなかったんです。競技のことを95%考える日々を過ごしていたし、競技に対してピュアに打ち込んでいましたから。
今振り返っても、ロンドンで辞めてもよかった、と思うぐらい、フェンシング選手の太田雄貴として真っ直ぐ進んでいたのがロンドンまででした」
北京からロンドンへの4年は、アスリートとしてさらに高みを求めるいわば青年期。ではこれからどうするか、と考える。
引退も選択肢に加わる中、ではフェンシングを辞めるとしたら何がしたいのか。太田が求めたのは、フェンシングだけでなくもっと広い世界を知り、自らの視野や交友範囲を広げることだった。他競技の選手やスポーツ関係者に留まらず、さまざまな業種の経営者との接点を積極的に持ち、自らも学ぶ機会を設ける。
まさに何かを始めようと踏み出した時に、何に導かれるか。今へ、そしてこれからにつながる大きな一歩と言っても決して過言ではない。ロンドン五輪を終えて間もなく、まだ現役選手でありながらもフェンシングから少し距離を置き始めた太田に、大きな転機が訪れた。
2020年の東京大会の招致に向けて、アンバサダーをやってくれないか。