第一章 「100年人生、目的を持ち幸福を目指す」
転職した次の会社は、外資系の企業であり、常に自分で仕事の目標を設定し、その成果が会社から評価されました。そこでは、目標も結果も数字で明確に出るので納得度はありました。
それ以外にも、自分で企画立案し、提案し、それが受け入れられ、事業化されて、それなりの結果が出れば、それは自分にとっては「成功」であり、満足感を得ることもできました。
そして、起業してからは、会社全体の業績の一つ一つが自分にとっての結果であり、「成功」、「失敗」につながっています。長期事業計画、年間販売計画等、すべて自分でその時の景況を考えて決めて、期末にはその結果が年間決算書という形ではっきり現れました。
自分が持つすべての能力を出し切った結果が、プラスになるか、マイナスになるか、百パーセント以上の成績であれば自信を持って「成功」であることを、社員や顧客に表明できます。これ以上の舞台はありません。会社の成績は、毎年社員全員に公表して、良い時も、計画通りにいかなかったときも、全員で結果を共有しました。
引退後の現在、これまでの会社員時代、経営者時代が自分にとって「成功」だったといえるのだろうか、改め、当時をふりかえってみると、「自分にはまだまだやるべきことはいっぱいあったのではないか、やり残したことはなかったか」
特に、経営者という立場で考えれば、際限がありません。もっともっと頑張ればよかった。考えれば考えるほど、限りがなくなります。多分、これが「成功」を求める姿かもしれません。
三木清が『人生論ノート』のなかで、「幸福」と「成功」を対比して、「幸福が存在に関わるのに反して、成功は過程に関わっている」と指摘しています。
つまり、「成功」は、量的に考えられるもので、どこまでも追い求めても限界がない。成功者と言われるひとには「足るを知る」心がないのでしょう。
この文章に接したとき、それまで自分の中にあったもやもや感が胸からすっと消えたような思いがしました。自分の中では、75歳で引退を決意していましたが、それがなければ、80歳になっても未だ、自分の「成功」への欲求を追い求めていたのかもしれません。その果ては、疲れた老醜をさらして、どこかに倒れていたかもしれません。恐ろしいことです。
したがって、今、自分がこれから追い求めていくべきものは、「成功」ではなくて「幸福」であることに改めて気づかされました。「幸福は各人のもの、人格的な、性質的なもの」であり、自分自身が求めるものです。
「幸福」のポイントは、「個人的なもの」であるということです。他人がどう判断しようが、本人が納得して「幸福」であれば、他人が立ち入る領域ではありません。
「自由」―自分自身の拠り所―を大切にして、自分が望んだ事柄を実現していくことが「幸福」な人生といえるのではないでしょうか。自分の与えられた時間がどれほど残っているかはわかりませんが、自分自身のために時間を使うことの喜びを実感する、老後にしたいと考えております。