当時の私は非常に落ちこんでいて、ともすれば自死の危険性もあるくらい落ちていたと後になって思いました。母と共に韓国の彼女の実家に旅をしたことが、私の心に変化を与えたのです。

そうしてその後私は今までお付き合いしていた彼との気持ちをスッキリさせ、新しい人生を広げることができました。そして今の夫に出会いました。まさにこの時の母は神業です。すごいですね。

私はいつも今生きていることに感謝しています。母は自分の分身である私を救ったのです。人は本当に弱いです。いつ挫折で自死するかわかりません。そんな時こそ母親が我が子の命を救うのです。

人間が行き詰まってしまった時、一番大切なのは環境を変えることなのだということを母は直観的に感じていたのかと思います。

私も娘が思春期の頃、だんだん彼女の顔が暗くなっていく様を見ながら、母のことを思い出しました。そうだ、環境を変えなければと直観しました。そうして、彼女を日本から離れさせカナダの高校に留学させたのです。

我が家には一人娘しかおらず、彼女が一人で海を渡り生活できるか心配でしたが、親の心配をよそに彼女は元気にカナダ・アメリカで高校、大学、大学院と学んで、結婚もしてくれました。いざという時に真剣に考え、思い切った行動をとらなければ手遅れになることもあるのだと思います。

人間の生き方は親から学ぶのですね。それも母親から。娘はまだ母にはなっていません。私はいつまで生きるかわかりませんが、多くの自分の周りの先輩から生き方を学んでほしいです。いつも母に感謝しています。

父、羅聖鳳(ナソンボン)のこと

父の田舎は母と同じ慶尚北道(キョンサンブクト)です。農家の男五人兄弟の中の四人目です。結婚は母が十八歳、父が十六歳の時でしたので、父が母より歳下ですが、私が子供の頃はあまり気にもしなかったし、父と母が歳の差で何か感じたことはありませんでした。昔の朝鮮では結婚する時お嫁さんがお婿さんをおんぶして結婚していた人もいたそうです。

父は三十歳くらいで単身日本の東京に出稼ぎにきました。父親はあんまり朝鮮人と一緒に生活をしていなかったようです。

日本語を話すことも書くこともできたので、日本で独自に行動が取れたからでしょう。父が日本語を学んだのは、朝鮮総督府が朝鮮に作った日本の小学校だったのではないかと思います。

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