第2章 父と母のこと
母の行動 貧しい時は助け合い
昭和二十五年、私が小学一年生で学校に行っていた頃は、日本は本当に貧しいものでした。
小学二年生まで、家から歩いて三十分くらいの小さな学校、分校に通っていました。学校の身体測定の時、クラスの子供達の下着はまるで醤油で煮しめたように茶色でしたが、私と地主の娘の二人だけが白い下着を着ていたことを思い出します。
我が家は子だくさんでしたが、両親が一生懸命働き、小さな工場を経営していたので、周りの家より経済的に裕福だったと思います。また当時の子供達は貧しく、衣服も本当に気の毒なくらいでした。
子供達は青鼻をたらして両袖で拭いているので両袖はカパカパです。今考えても考えられないくらいです。頭にはシラミ退治のためDDTが噴霧され真っ白です。また学校に行く途中、ある男の子のズボンのおしりからしろいゴム紐ひもみたいなのが下がっているのを見ましたが、それは寄生虫のサナダムシでした。
学校にはお母さんが亡くなり、四歳くらいの弟と一緒に登校し、自分の席の前に弟を座らせて勉強をしていた同級生もいました。今考えると、よくそんな時代を過ごしてきたなぁーと思います。
私が一年生、弟がまだ五歳の幼稚園児の頃には、栄養失調でお腹がアフリカの子供のようにパンパンに膨れていたと後になって母が言っていました。私の家の周りの日本人の家の人達は本当に貧しいものでした。家の中にはほとんど家具はなく、ただお部屋にぼろの畳が敷かれていて、中は何もないので広々としていました。
母は時々夕方になると、家で作ったおかずなどを持って困っているお宅の裏口からこっそり届けていて、それを私は子供ながらに見ていました。私の家には子供の古着もたくさんあったので、それを数枚持って同じくらいの子供がいる家に届けているのも私は見ていました。
母は韓国でも漢方医の長女として裕福に育ったので、自分の母(祖母)が同じことをしていたのでしょうか。子供は親がやっていたことをしっかりと見て育つのかもしれません。
私が五年生の時だったと思います。学校から帰ってきて母に
「同じクラスの女に子の洋服がとても汚くてボロボロで、気の毒なの」
と言ったら、母が工場に行ってトリコットでできた子供服を一着持ってきて、
「これをあげなさい」
と私に預けたことがあります。子供が同級生にあげることはちょっと恥ずかしいと思ったのですが、意を決し学校に持って行って、放課後彼女にこっそりと
「これ私のお母さんからあなたにあげなさいって言われたのでどうぞ」
とあげました。すると、彼女は次の日に新しい洋服を着てニコニコしていました。私は恥ずかしかったけど
「あー、あげてよかったなあー」
と思いました。