母、姜外善のこと
母は一九〇七(明治四十)年生まれ、未年です。慶尚北道の田舎の漢方医の長女として生まれました。
名前は「姜外善」。まるで男のような名前です。
母は十八歳の時、二歳年下の父と結婚しました。結婚して父は日本に出稼ぎに行き、母は数年父の実家で居候をしていましたが、一九三八年頃、三人の子供と一緒に先に日本に出稼ぎにきている東京の父親のところにやってきました。
そうして昭和十八(一九四三)年、東京で私が生まれました。
同じ年、東京から栃木県足利市に知り合いを訪ね、疎開しました。戦争中、親切な日本人の紹介で中島飛行機のボロ布の洗濯再生の仕事にありつけました。少し大きくなった子供と一緒に家族総出で真っ黒になったボロを洗濯して土手に干して、中島飛行場に納めていました。
そうして一九四五(昭和二十)年、終戦となり、その仕事もなくなりました。
戦後二年経った一九四七(昭和二十二)年、渡良瀬川の大洪水で我が家は家族全員が家もろとも濁流に飲まれました。すべての財産も流されました。私はその時四歳でしたが、お陰様で九死に一生を得ました。それは奇跡に近いことです。
その後両親は子供七人を育てるため、いろいろな仕事をしてきました。前にも少し書きましたが、ドブロクの密造、養豚と、生きるために日本人がしない汚い仕事をしてきました。
私が小学校低学年頃だったと思いますが、父と母が話しているのを私はこたつに入って寝たふりをして聞いていました。当時いろいろな仕事をしてもなかなか儲けられない、ほかの韓国人は結構パチンコの経営をし儲けているので、父も
「パチンコを仕事としてやりたい」
と母に話していました。すると母は、父にはっきりとした声で
「パチンコは水商売です。水商売は水のようにお金は入るかもしれないけど、水のようにお金が出ることもあるので、私はパチンコはやらないほうがよいと思います」
と言っていました。私はまだ幼かったですが、会話を盗み聞きしながら、母のしっかりとした考えに感動しました。今でも、どうして母親はそんな考えができるようになったのか、時々考えます。