ところが一一二七年、女真族の国家「金国」が、「靖康の変」において華北を奪い取って北宋を滅ぼしてしまう。しかし広大な中国大陸への急激な展開は軍事的に不利だと見て深入りせず、華北に傀儡国家かいらいこっか(他国の意思で動かされる国家:今日ロシアの傘下にあるCIS国家類似)を樹立して対宋とのバッファーゾーンにし、それ以上の南進を思いとどまる。

この判断は、日中戦争時の日本軍の戦略よりも優れているといえる。日本陸軍も満洲区域だけに限定した作戦をとっていたなら、その後の日中戦争の泥沼化や太平洋戦争にまで発展することはなかった可能性がたかい。

この金国は、一度元を興したモンゴル人によって滅ぼされているが再興し、後に清帝国を建国する。

四代天子仁宗じんそうにいたっては、文治政策による軍事力の低下によって足元をみられ、契丹と最初に約束した毎年の歳幣さいへい(和平料)を二十万両に増額させられ、西夏に対しても当初の五万両から二十万両で再講和し朝貢を維持する。

さらに、南宋の初代皇帝高宗に至っては、金国(女真族:満洲に起ったツングース系)との講和「紹興しょうこうの和議」において毎年銀二十五万両、絹二十五万匹を貢ぐよう約束させられる。

これは日本が在日米軍駐留経費負担を毎年支払い、なおかつ契約更新の度に増額を求められるようなものである。文治優先政策をとる国家としては仕方のないことである。

外交は譲れば譲るほどますます譲らされるものであることがわかる。今日のロシアに対抗するウクライナやCIS国家もそうであろう。いずれも屈辱的な講和であったが、宋としては名を取って実を捨ててまでも平和共存を優先したのである。