社会的に承認されることによってしか達することのできない境地への憧憬と反発。そう、私たちは、二の丸にあっても幸福の欲求を達成させることができることを証明しなければならないのだ。だから、クリエイティヴであることにこだわらざるを得ないのである。

「異」の排除に概ね成功した者たちだけが、本丸に移ることとなる。だが、そうだとしても、歴史が示しているように、文明の担い手はおおよそすべて二の丸より排出されることとなる。ここに少なくとも私は大いなる自負をもって臨んでいきたいと思う。

彼らは、本丸の住人が1であるならば二の丸の住人を0・5と判断するかもしれない。だがそれはたいへんな誤りである。二の丸の住人は1・5と表されなければならないのだ。

これは現代社会の誤謬の筆頭に来るべき現象であろう。そのように考えると、「異邦人」とは実に意味深な表現である。ここは部分的には「預言者」でもよいのかもしれないが、入京を許されない者こそ真実を語ることができる者。

このパラドックスを解明できる若者は、間違いなく時代を経るにしたがって減少していくこととなる。無論、多様性の尊重がその一方でより多く担保されていかなければならないはずであるが、しかし彼の生き辛さは、変わりそうで変わらない世の中の、実は表面的なものでしかない激動を、象徴的に表しているようだ。

おそらくこの蟠りが解消されるためには、どこかで歴史が反転する必要があるが、そのためのキーワードを、私と彼は見つけなければならなかった。

第二章 信仰 夏

すでに私と彼とをつなぐキーワードが登場している。

異邦人

預言者同様異邦人とは、宿命を背負う者の意である。果たしてそのように定義されるべき者は、少しだけ時代に先んじて生まれてきたのだろうか?

そのような者たちは、幼少の砌(みぎり)より、ある種の運命の悪戯によって、時間的にも空間的にも「自」を「他」と切り離すことを習慣づけられてきた印象があるのではなかろうか。

ここに芸術的感覚の発露を見出すことは、比較的高い確率で可能なのかもしれないが、そうだとしても、このような宿命を背負う者たちが、常識や慣習によって構築された既得権益者の牙城に楔(くさび)を打ち込むことは、よほどの才能に加えて運に恵まれた者でしか為し得ない大業であろう。

【前回の記事を読む】「青春」が事務的なものに変化する瞬間。進学や就職が「好き」を取引にしてしまう。