ぼくの地球

第一章 目覚め 春

叡智の限界

もしその限界を補うものがこの世にあるのだとすれば、その役割を担うのは神以外の何物でもあるまい。

明日が今日の延長線上にあるものである限り、私たちは変化することはできても前進することはできないであろう。理想の実現は、今という瞬間を過去から切り離すことから始まる。

だから夢が出てくるのであるが、青春時代においてアイデンティティーの持つ意味に僅かでも触れることができたのであれば、不都合により生じる日常的な波風に対する耐性を、そうでない場合よりも多く得られることとなる。

青春は模倣に始まるが、それが終わる時にはそれとはまったく逆の可能性を主体は知ることになる。それが個性である。そして個性とは、意思を持つことによってのみ有効な価値を有することとなる。

もうちょっとわかりやすいレヴェルにまで話を戻そう。

おそらくここは、私と彼の共通点でもあろう。私も彼もその幼少期より「好き」の発見、そして実践を常に損得に優先させてきた。多分家庭環境などが似ていたのであろう。また経済的にも当時は社会に余裕があったのかもしれない。そして「好き」は、それが深まれば深まるほど、個の価値を一定量他人に認めさせることにつながる。

例えば鉄道などに詳しい少年は、クラスでも人気者になるかもしれない。ところが、例えば進学や就職などの現実的なハードルが、大袈裟ではなく、一瞬にして状況を変化させてしまう。「好き」は否定され、取引が肯定される。

そして「自分が何を好きで何をやりたいかがわかっている人」ではなく、「三人称で表されるべき人々が自分に何を期待しているかがわかっている人」がより多く評価されるようになる。

そしてその瞬間、青春は事務的なものに変化する。

この悲劇は、感受性の強い時期にしか発見できないものを、かなりの割合で無意味化してしまう。

しかも、そのことに気付いていない人の方が青春を生きる人としては理想的であると、社会的に解釈されてしまう傾向さえある。

この、知らず知らずのうちに見過ごされている、しかし私のような人間からすれば、人生の根幹的な問題でもある現代特有の現象は、時に莫大な利さえ絡むこともあるために、気付かないかまたは気付かないふりをすることが、その時点の最先端を行く者の流儀である、と錯覚している人も多いように思えもする(またはそれだけの判断能力に欠けているのか?)。

ここは、しかし、強調しておかなければいけない場面であろう。ある意味青春の、いや人生の本質に関わる問題でもあるのだから。