五 般若心経を杖に歩いた88の時間帯
そもそも、般若心経というお経=釈尊の教えに惹かれたのは、前にも書いた警備会社に勤めていた頃に遡ります。当時、私は某スーパーマーケットの店内警備を担当しており、中でも一番大きな割合を占めるのが、万引きの防止と、その現行犯での処理でした。
とはいえ、事の性質上、万引きが行われる前にこれを止めるのは難しいものです。ほとんどは事後に声をお掛けし、別室に来てもらって事情を聴くという次第にならざるを得ません。
約8年間に、対応対処した約2000人には悪質な常習者もあり、生活に困ったお年寄りのケースもあり、スリルを求めて非行に手を出す少年たちもあり、最年少では4つのお子さんまでいましたが、そうした場面で常に痛感したのが「自分自身に一貫した心の物差しを持たなければ」という点。実際、それがないままに対処をしても、「ああすれば良かった」「こうするべきだった」と常に悔いが残る結果になってしまうのです。
もちろん、私たちの仕事としては、現行犯で見つけた相手をそのまま有無を言わせず警察へ送る事ができます。
しかし、それは既にその人を裁く事になり、警官でも、ましてや検察官でも、裁判官でもない自分が安易にそんな事をしていいものかどうか? いつも迷いながら対応をする日々が続きました。
たとえば、多いのが「金を払えばいいんだろう?」という様な態度の人で、こうした場合にはとにかく、自分自身に窃盗というれっきとした過ちをした事を自覚してもらおうと、時間を掛けて切々と話し合います。
「人間だから間違いや失敗もある。でも、そこから学ばないとまた同じ過ちを繰り返す事になるから、やった事とここできちんと向き合わないといけない」
その上で、ご家族等の保証人に引き渡したり、警察を呼ぶ場合にも「反省している様なので、どうか寛大な処置を」と口添えをしたりはするのですが、常に「これでいいのか?」との疑問と心残りを拭う事ができません。