【前回の記事を読む】三百名山をあと一つという所で…登山道で熊と遭遇! 急所は防げたが…
序章 我がへんろ旅、発心の記――88(パッパッ)の時間帯で得た喜び
四 八十八カ所へんろ旅を発心!
ところが何という幸運!
次の瞬間、熊の奴があまりに勢いをつけて再びかぶりついていたため、ゴロンと前方へつんのめる。そこがちょうど九十九折れの角、壁の切れ目になっており、藪の向こう側へ転げ込む様に落ちていくのを見て、こちらは必死で立ち上がると、泥まみれでこけつまろびつ、すぐ下のキャンプ場へと逃げ込みました。
何せ頭をかじられたために顔半分は血まみれで視界が利かず、脚は噛みつかれて骨折し、最初に噛まれた左手も痺れた様に動きません。それでも命からがら車を止めたキャンプ場へたどり着き、そこにいた人がびっくりしているのに
「熊です、近くに病院はありますか?」
と、止めてあった自分の車を運転して病院へ行けたのは、我ながら度胸が据わっていたと感心します。
そのあたりは長年の山歩きで、突然の落石や倒木に遭ったり、時には遭難し掛かった人を助けたり、自分自身も遭難し掛けた事もある――そんな経験のおかげで、落ち着いていられたのかもしれません。
手当を終え、背中から下ろしたザックがズタズタに噛み割かれ、左手首の頑丈なスポーツウォッチが滅茶苦茶に砕けていたのを見て、改めて背筋が寒くなるのを覚えたものです。
この危難をきっかけに、山登りはやめました。
結局、残り一つ、景鶴山(標高2004m)だけは登らぬままになりましたが、299というところで打ち止めというのも、未完の面白さがあっていいのではないかと思います。
そして「さあ、次はどうしようか?」と考えた時、天啓の様に頭にひらめいたのが、四国八十八カ所のへんろ旅でした。
思うに、へんろ旅へ出ようと心に決める、いわゆる「発心」の理由は人それぞれのはず。私の場合も濃淡のある色々の思いが、そこに至る動機となっています。
たとえば、先に書いた子ども時代のミニ八十八カ所の事、その楽しかった記憶を思い出したり、改めて何かをやろうと考えた時、自分にできるのは歩く事くらいだと気付いたり。他にも、60歳も半ばを過ぎて、健康のため運動不足対策になるのではと考えたり、もちろん観光的な興味や、近年は中高年にブームというへんろに対する好奇心……何かご利益めいた事もあるかもしれない、との少々欲張った気持ちもありました。
でも、そうした様々な考えや思い以上に自分にとって大きかったのは、これまで生きてきて感じた多くの「厄」、すなわち悩みや苦しみを解決するのに、へんろ旅は何かの手がかりを与えてくれるのでは、という淡い期待だったという気がします。
言い換えるなら、心の本質を理解し、命とは何なのかを考えてみたい――今にして振り返ると、これは発心即行動という事で、自分自身の心が環境の変化を強く求めていたのがわかるのです。そして、そのよすがとなったのが、他ならぬ「般若心経」との巡り会いでした。