第二章 回り道のふしぎ
デュッセルドルフの町を朝早くに一人でぶらぶら歩いていると、詩人ハインリッヒ・ハイネの生家を見つけた。詩の朗読会の予告が張り出してあり聞いてみたかったが、無理な話だった。
参拝のあとは、ドイツ国内をバスで南下し、有名なノイシュヴァンシュタイン城(白鳥城)にも寄った。ここではワーグナーの音楽に心酔した、ルートヴィヒ二世の狂気に触れることができた。
旅行団の最後の訪問先はパリだったが、ここでも一人で歩いているうちにモンマルトルにある墓地に出た。なんとそこにはハイネのお墓があった。こんなところにも、ふしぎな出会いが待っていた。
ザールシュテット
私が学生生活を終えて家に帰ってきて驚いたのは、平田市(現在は出雲市)の民間レベルで、北ドイツのハノーファー近くにある小さな町、ザールシュテットと交流をしていたことだった。交流についてはまったく聞いていなかったが、こんなところでドイツ語を学んだことが役に立つことになった。
交流の内容は、不定期だけれど、相互に訪問団を受け入れることだった。まず私の家で、一人のホームステイを受け入れた。ホーヌングさんという、六十歳代の女性だった。英語も達者で、世界のあちこちを回っているという、なかなか活発な方だった。
それから二年後ぐらいに、今度は私がホーヌングさんの家でホームステイを体験した。私にとって二度目のドイツ訪問だった。彼女の家は、ザールシュテットからさらにハノーファー寄りにある、ラーツェンという町にあった。
子どもたちは独立して海外で生活していて、ご主人と二人暮らしだったが、もう一人の同居人がいた。ロシア人の青年で、アンドレイといった。ホーヌングさんはチャリティー活動の一つとしてアンドレイを家庭に受け入れ、ドイツ料理を学ぶため料理学校に通わせていた。手に職をもたせ、独り立ちできるように、生活の基本から教えているとのことだった。
私はホーヌングさんとアンドレイの二人が作るドイツの家庭料理をいただき、ここにこのまま住んでいけたらいいなあ、といった。すると旅行経験豊富なホーヌングさんからは、
「外から見るとなんでもうらやましく見えるけれど、そこで生きている人にとって、生活していくことはとても大変だということを知っておくべきですよ」
と諭された。特にドイツは西と東が統一されてまだ数年しかたっていなくて、以前に比べると生活状況は悪くなっている、とのことだった。
東日本大震災が発生したときには、ホーヌングさんから「だいじょうぶですか?」と心配する手紙をいただいて、こころがあたたまり、とてもうれしかった。島根は東日本から離れているので被害はなかったけれど、私自身は東京での会議の最中だったので、当日はビルの冷たい通路でひと晩を明かす、帰宅難民になっていた。あとから知ったことだが、築地本願寺では炊き出しがされていたということだった。そこに行けばよかった。