人々が信じるのは、現実的な思考実験が、いつの間にか空間論にすり替わっているという、うまい話術ではないだろうか。したがって前提が否定されても中心の部分に対する信念は変わらないという奇妙なことも起こるのだ。

詐術のもう1つの側面、すなわちより純粋な意味での空間論はあまり指摘されてこなかった。例えば、私が乗ったエレベータの内部は、外の空間とは別物なのか、それとも同一なのか。現実的な話の中で空間という言葉が出てくるので、内部を独立した空間のように誰しも誘導される。

相対論では「空間」と言わずに「系」と呼ぶので、さらにあいまいさが増す。系でも空間でもよいのだが、私の体の内部はどういう扱いになるのだろうか。私の体の内部も含めて、すべてが同一の空間であるとしたら(言うまでもなく空間とはそういうものだが)、疑似重力という感覚が空間の何らかの作用であるという話が成り立たなくなる。この思考実験において、そもそも「空間」は何ひとつ役割を果たしていない。

冷静になって考えてみればわかることだが、疑似重力の出どころは床という個体物であって、室内という空間ではない。このあたりは、方眼紙をくぼませて重力が生まれるように錯覚させる例と同様で、極めて都合の良い物質的属性を与えている。そのことをうっかり忘れ、私たちは箱の外と内側をそれぞれ独立した空間と、誤って認識させられているだけなのだ。

通常概念では空間の分割も可能であり、どちらかというとむしろ閉鎖的な場所について言われるだろう。生活空間、電脳空間、などという言葉があるように、切り取られた部分的空間を語ることがこの言語空間の習慣である。

ほかには、幾何学でもそのような使い方をするだろうが、それは科学の意味する現実の空間ではない。エレベータは、せいぜいのところ加速度系だろう。つまりこの作り話は空間という概念をあいまいに扱うことで抽象論を現実に見せかけているということだ。

重力場で落下するエレベータについては、もはや検討することさえ無意味である。箱は全く必要ではなく、広い空間を人間のみが自由落下の状態で落ちてゆくことと理解して、何の不都合もない。これを空間の働きとするためには、この小さな人間以外のすべてが、すなわち宇宙全体が、彼と反対の方向へ動くことと理解する必要がある。それとも空間は彼と接触する極小部分なのだろうか。

ひもに人をすがらせて引き上げる、人が飛行機からダイブする。エレベータを使った思考実験の実質的な部分を取り上げるなら、以上のような描写で事足りる。だが、これでだまされる人がいるだろうか。空間の移動は重力を生まないし、空間の歪みと空間の移動も同一視できない。

しかしエレベータの箱ひとつで、空間の歪みと重力がいともたやすく結びついてしまう。一般相対性理論の核心部分は、ここまでお粗末極まる代物なのだ。