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第一部 銀の画鋲
「牧師の奥さん」
僕はそのひと振りを軽くかわし、悠然とカトリーヌのほうに歩いた。
「もう、やめてください。奥さんの言うことを聞きます」
カトリーヌは僕を抱き上げた。
「ここには来ません。だから、ワルツさんのこと、悪く思わないでください」
僕の胸にカトリーヌの鼓動が伝わってきた。
「それにリュシアンに乱暴しないで。お願いです」
牧師夫妻が帰ったあと、ワルツさんはカトリーヌに古い本を好きなだけ持って帰っていいと言った。
「手伝いの合間やひとりになれた時に読めばいい。誰も買わなかった古い本だから気にすることはない」
ワルツさんは何ごともなかったかのように、そっけない調子だ。
そして温めたミルクをカトリーヌの手に渡しながら、言い添えた。
「カトリーヌ、あの人たちを憎むんじゃないぞ。人を憎むと自分が汚れる」
「嫌ってもいいが、決して憎まないようにな」
ミルクに口をつけながらカトリーヌは何度もうんうんとうなずいた。ミルクの湯気のせいなのか、カトリーヌの顔がのっぺらぼうに見えた。瞳から光が消えて何にも見ていない。胸騒ぎに駆られた僕は、長いしっぽをカトリーヌの首に回した。
「大丈夫だよ。リュシアン。私、大人になって独り立ちしたらこの島に帰ってくるよ。ワルツさん、いいでしょ。戻ってきてもいいよね」
カトリーヌは力のない抑揚のない声で言った。
ワルツさんは肘掛椅子を元の位置に戻しながら、
「いいとも、カトリーヌ。だが、わしはもう死んでいないかもしれんがな」
と、ちょっと笑った。
ミルクの配達の時には顔を見せることを約束して、カトリーヌは教会に戻っていった。ワルツさんはしばらく根が生えたように椅子から動かなかったが、薄闇に目が慣れる時分になって、やっと腰を上げてスウプを作り始めた。
「リュシアン」
ほら、来た。僕は、ピクッと耳を後ろに傾けた。
「カトリーヌのことだが、わしが身元引受人になるってことはできるんだろうが、こんなわしのそばにいても、カトリーヌが苦労するだけのような気がしてな。ずいぶん、考えたんだが」
ワルツさんはひげを撫でた。
「でも、今日みたいな扱いを受けているカトリーヌを見ると心が痛んでしょうがない。カトリーヌは賢い娘じゃ。自分にとって何が大事なのかよく知っておる」
そうだよ、ワルツさん。カトリーヌは特別な子なんだ。あんな身なりをしていてもちっとも自分を卑下してないし、胸を張って歩いている。
どこかの貴族みたいに偉そうに歩いているんだ。奥さんを見るカトリーヌの目の光もすごかった。眼力のある僕も負けそうになるくらい瞳孔が開いていた。それこそ切り裂きジャックになれるくらいにね。
それから、ワルツさんは聞いたことないと思うけど、詩を読む時のカトリーヌって最高なんだ。丸く澄んだ声で、遠くに向かって読むんだ。
「そうか、リュシアン、そうか」
ワルツさんは、僕の額を撫でて、また黙りこくってしまった。