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奥会津の人魚姫
(3)
その日の夜は、千景が疲れて早々に寝てしまったため、鍛冶内は一人の晩餐を余儀なくされていた。
はなれで、乙音が運んでくれた、昨日とは少し違う10品以上の会津の郷土料理のフルコースを食べていると、フリルの付いたベージュの寝間着姿の乙音が、お燗のついた大きめのとっくりを持って現れた。
身重とはいえ、まだ20歳ほどの娘である。抜けるような白い肌に、くっきりと描かれた綺麗な目鼻立ちは、ラフな格好の中でも鍛冶内の視線を惹き付けるのに十分だった。
「ああ、俺は酒はいいよ、乙音ちゃん」
「そうおっしゃらず、ちぃちゃんの分まで飲んでくださいな、おじさま」
にっこりとする乙音から漂ってくる、良い香りに逆らうことができず、鍛冶内は小さな盃で酒を受けた。
「千景の妻という立場なのは理解したけどね、乙音ちゃん。あいつと籍は入れたのかい?」
「いいえ。それが……」
と、少し口ごもった後、何かを吹っ切るようにこう言った。
「民法734条に、一度親子として縁組みした同士は、籍を抜いても結婚できないという決まりがあるんですって。だから私とちぃちゃんはいつまで経っても、戸籍上夫婦にはなれないんです」
「へぇ、それは初めて聞いたよ。血が繋がってないのになぜだろう」
「親がその立場を利用して、無理に結婚させた例があったからだと聞きましたわ」
「なるほど……。ひょっとして千景も親の立場を利用したのか?」
ふざけた抑揚で鍛冶内が言うと、乙音は急に真剣な顔つきになって鍛冶内に顔を近付け、
「おじさま、ここだけの話ですが…………実はそうですの」
と小声でささやいた。
「きゃはは。それは災難だったね、乙音ちゃん」
「だって10歳の頃から一緒にいるんですもの。洗脳されるには十分でしょ?」
そう言って、ふんわりとした優しい雰囲気を残したまま、乙音は去っていった。
乙音のスリッパの音が消えてからしばらくの間、鍛冶内は注いでもらった盃を惰性で口に運びながら、ぼんやりと考えていた。今見たあの子が、はたして人を騙すようなことをするのだろうか、と。