敗戦後の父は酒ぐせが悪くなっていった。父は酒が入るとガラリと人が変わった。飲むにつれてだんだんと目が据わってくる。柔和な顔が次第に険しくなり、ろれつが回らなくなる。
それから家族の引き止めるのも聞かず、フラフラと外へ出て行くことも屡々だった。出て行けばどこへ行ったかわからない。したたかに泥酔して帰宅した時はもう正体もない。玄関の上がりかまちに倒れたまま自分では一歩も動けない。
つけ馬が従いて来たこともあった。母の不機嫌は頂点に達したが、それでも仕方なく、なけなしの財布の中味をはたいて渡した。玄関で正体もなく伸びている父を家族みんなで部屋に運び入れる。こうしたことは一度や二度のことではなかった。
あれはいつのころだったろうか。酔っぱらって足元のふらつく父に、私が肩を貸して連れて帰る途中のことだった。わけのわからないことを言いながらよろめく父を見て、向こうから来た十歳ばかりの女の子が、怯えたように私たちを避けて走り過ぎた時は、さすがに恥ずかしくも情けない思いをしたものだった。
姉も幾度となく父が飲んでいそうな所へ迎えに行ったり、酔いつぶれている父を介抱しながら、「ウチは絶対、酒飲みとは結婚せえへん」と宣言した。その言葉通り姉の夫は一滴の酒も飲めない人だ。弟もそうした父を見て酒を嫌った。
夕食時に父が晩酌の盃を傾ける日、決まって母は「いつまでも片付かへん。早う飲んでしまいなはれ。早う」とせき立て、父に背を向けて食事をした。しらけた父は「楽しかるべき夕飯が……」と呟きながら黙々と盃を口に運んだ。
私は「将来夫になる人には、酒を飲む人なら気持ち良く飲ませてあげよう」と、ひとりひそかに思ったものだ。
普段は何一つ欠点のない父だっただけに、酒に逃げ場を求めていたのかもしれない。
とうとう元の呉服商に戻れなかった父は、弟が始めた菓子づくりの仕事を手伝ううち脳卒中で倒れた。一度は回復したが、二度目の発作で体に重い障害を残して寝たきりになった。そして昭和四十四年一月肺炎を併発し、七十歳でその生涯を閉じた。
母のこと
母は小柄で体は丈夫な方でなく、およそ商売人のおかみさんらしくない寡黙な人だった。
滅多に自分の意見は言わず、父が人づき合いが良かった分、母は内にこもって、人とのつき合いも上手な方ではなかった。
商家の朝は早い。寒い冬の日でも、午前五時ごろには土間にある台所を行き来する母の下駄の音がした。そして御飯やみそ汁の匂いが、二階の私の寝床にまで漂ってきて、私が子供のころの我が家の一日が始まるのだ。
母は商売の方には全く口を出さなかったが、毎日の炊事、掃除、洗濯はもとより、家族の着物の洗い張りや仕立てから、子供の毛糸の服や腹巻きその他の編み物、そして家族のふとんの仕立てまで、すべての家事をこなしていた。
今のように家電製品の無かった時代、母は一日中手を休めているひまはなかった。