同書によれば、一般に「辰」とは「民に時節の早晩を示すためのもの、即ち季節を正しく知らんがための観測物」で、「辰」としては、大火(心)のほかに、伐(参)や北辰(北斗)も古くから用いられていたという(p.26)。
参はオリオン座の三連星のことで、中国上代では、夕方この星が東方に見え始める時期が冬至(11月)の季節とされていた。また、新城説に、この星座の形が斧鉞に見立てられるので、この星をもって斬伐を司るものとして、この時期を伐木狩猟の開始時期としており、参を一名、伐と称するのもこれに因むという。伐は戌と同類の文字であり、狩猟に因むものとして戌は狗(犬)に充てられたのであろうという(p.29~30)。
歳という文字は歩と戌に解字できるが(『説文解字』二上の歳条に「木星なり。 ……歩に従ひ、戌聲」とある)、新城氏は、この歳という文字は、戌=伐=参を「辰」としていた時代の遺物ではないかとされる(p.30~31)。戌の歩みによって歳を図る基準とする謂である。
5月が辰~龍、11月が戌~狗であるので、これによって十二支の5番目が辰(たつ)、11番目が戌(いぬ)になっている(このように十二支に獣類の名を配当するのは、戦国時代〔B.C.403~B.C.221〕に始まり、明らかに文献にみえているのは後漢の王充の書いた論衡で、鼠・牛・虎・兎……などを丁度現今と同様に配当しているp.170・p.185)。
十二支は12か月の月名を紀するため、今から3千数百年前の殷時代に創始された順序数である(p.36)。5月・11月は上の通りで、他に、4月は四を象った卯、6月は蛇の跳梁する月であるので蛇の形を象った巳、8月は禾の成熟に象って未、10月は新酒を酌む月であるので、酒甕を象った酉としたという(p.36~37)。
他方、十干は太陰暦の1か月を10日ごとの上・中・下三旬に三分して各旬の日に付した番号であったが、やがてこの十二支と十干を組み合わせて60個の番号を作り、これを用いて日を紀するようになったのも殷の時代からであるという(p.169~170)。
中国の戦国時代の半ば頃に、木星が、時に緩急・停滞・逆行あるも、約12年(11.86年)で天を一周することが知られ、この運行に12辰(12支)が充てられ木星が歳星と称されるに至る(p.53。上に注記した『説文解字』説もこれに基づく)。但し木星の運行は天の12辰とは逆向きであったので、木星の運行に逆行する影像、太歳を想定して、太歳の位置によって年の干支を決めることにした。この方法を太歳紀年法と呼ぶ。
年を紀するのは、初めはこのように十二支によったのであるが、やがて60干支による紀年法となる(p.170・171)。