第4章 適応障害についての疑問・1
広がりを持つ適応障害
エピソードにあげたような若者の状態は、精神障害の基準に照らすとピタッと合わない、基準に示された適応障害ではない可能性があります。
しかし普段何気なく使っている適応という語感は、仕事のみならず家事や学業などやるべきことがうまくできている状態と理解されますので、うまく行っていなければ、適応力が低い、適応がうまく行っていない、適応が障害されていると言っても違和感はないかもしれません。あの人はうまくやっているのにこの人はうまくやれていないという程度のことでしょう。
しかしこの一般的な適応に関しても、適応力がないなどと言われると短所にようになってしまいます。就活でも、適応力がない、協調性がないというのはマイナスポイントと受け止められます。
しかし他の生き物を考えると、適応できる生き物もできない生き物もいて当然です。海の生き物を陸にあげると死んでしまうし、春になると多くの人を苦しめるスギ花粉の杉も日本では北海道の名寄あたりが北限と言われています。それ以北は生えないのです。
これは仕方のないことです。人間だって得手不得手があり、その人その人のできることできないことがあっても仕方がないと思うのですが、適応力がないが悪のように取り扱われてしまうのは何とも傲慢というかきびしい感じがします。
人間が人間社会に適応するのは当然だと思われているかもしれませんが、人間社会はさまざまな側面を持ちかつ流動的に変化し続けています。それぞれの時代、地域、社会は、価値や慣習、意識も異なります。また人間の成長に伴い求められるものも変わってきますし、移動などによってもうまく適応できないことが当然起こります。
現在、うまくやれないことが適応できていないと理解されるのは、適応障害という言葉ができたからだと思いますが、病名(障害名)としての適応障害とは違いがあります。病名(障害名)としての適応障害には、診断基準があります。しかしその違いを飲み込みつつ、言葉としての適応障害は広がりを持って来ているように思います。