【前回の記事を読む】「一大事がある。速やかに集まれ」いつも冷静な重盛公が突然皆をあつめて…

第一章

常陸(ひたち)国史(こくし)孝子(こうし)弥作伝(やさくでん)

【8】「常陸国(ひたちのくに)農弥作(のうやさく)

江戸時代初期の頃のお話です。

常陸国、現在の茨城県付近の行方(なめかた)(こおり)玉造(たまつくり)村の農民に弥作(やさく)という人がいました。

家は貧しく田もなく、人の田畑を借りて耕作していました。父が早く死に、母は老いて足の病にかかってしまいます。

弥作の性格は生まれ付き、おっとりとしていましたが、母に対して大変孝行の者です。

妻と共に心を合わせ生活して母を養っていました。それから後に、妻が病にかかり仕事をすることができなくなりました。

弥作は、しかたなく、このようになってしまえば母を養っていくことができないと考え、ついに、妻とも別れることにします。

そして、母と二人暮らすことにしました。

田んぼに行く時は母を一人にすることが心配で、母を背負ってから体の間に、農具を(さしはさ)み、さらに、母の食べ物を持ってから田んぼに行きました。

夏は涼しく冬は暖かな場所を母のために選び、自らは田を耕して飲食を勧めて安心させ、孝行に努めます。

母は、お酒を好んだため、弥作は毎日、お酒を買っていたので家には全く貯えがありません。

延宝(えんぽう)の初め頃、領主の徳川(とくがわ)光圀(みつくに)公がこれを聞き、村を巡回した時に弥作の家に入り、弥作は両手で金をすくいあげるように頭上に挙げて、その孝行への褒賞(ほうしょう)を頂きました。

これを与える時に、公はこのように言います。

「これで、よく母を養いなさい。これは私が与えるものではない、天が与えるものである」

また、村の役人等を呼んでから言いました。

「聞くところ、弥作の性格はおっとりとしているという。この金を奪われるかもしれない。あなた方は、このことを考え、弥作に田を買わせて常によく面倒を看なさい」

後になって、徳川光圀公は儒学の臣下に命じて『弥作伝』という本を作らせました。