第二章 幼学綱要を読む

【忠節(ちゅうせつ)・第二】

支那史(しなし)

⑦三国志(さんごくし)

【22】「諸葛亮(しょかつりょう)」

亮(りょう)は昭烈(しょうれつ)の配下(はいか)として険(けわ)しい道(みち)のりを越(こ)え、帝(みかど)を助(たす)けて呉(ご)の国(くに)と同盟(どうめい)し、曹操(そうそう)を破(やぶ)って、ついには荊蜀(けいしょく)の地(ち)を平定(へいてい)して復興(ふっこう)の基礎(きそ)を作(つく)ります。

その後(ご)、曹丕(そうひ)は漢(かん)の皇帝(こうてい)である献帝(けんてい)を排除(はいじょ)して、皇帝(こうてい)の位(くらい)を奪(うば)い取(と)り、自(みずか)らの国(こく)である魏(ぎ)を建(た)てました。

蜀(しょく)の地(ち)にもそのことが伝(つた)えられ、漢(かん)の帝(みかど)は、すでに殺害(さつがい)されてしまったといわれました。

ここで、昭烈(しょうれつ)は喪(も)に服(ふく)すことを発表(はっぴょう)して、ついには漢中王(かんちゅうおう)の地位(ちい)から蜀漢(しょくかん)の皇帝(こうてい)の位(くらい)に即(つ)きました。

その時(とき)、亮(りょう)は国(くに)の丞相(じょうしょう)となり、国(くに)の政治(せいじ)を委(ゆだ)ねられ、昭烈(しょうれつ)は呉(ご)の国(くに)の兵(へい)を倒(たお)して永安(えいあん)に帰(かえ)りました。

それから間(ま)もなく、昭烈(しょうれつ)は病(やまい)が重(おも)くなり、亮(りょう)に命(めい)じて皇太子(こうたいし)である禅(ぜん)を助(たす)けるように、と亮(りょう)に言(い)いました。

「君(きみ)は必(かなら)ず天下(てんか)を定(さだ)めることができる。太子(たいし)が助(たす)けるべき人物(じんぶつ)であれば、助(たす)けて欲(ほ)しい。もし、助(たす)けるべき人物(じんぶつ)でなければ、君(きみ)が自(みずか)ら国(くに)を動(うご)かして欲(ほ)しい」

亮(りょう)は涙(なみだ)を流(なが)しながら言(い)いました。

「臣下(しんか)の私(わたし)は君(きみ)の手足(てあし)になって力(ちから)を尽(つ)くしてきました。君(きみ)の忠貞(しゅうてい)の節度(せつど)に習(なら)って、太子(たいし)が帝位(ていい)を受(う)け継(つ)げるように、これからも死力(しりょく)を尽(つ)くしていきます」

昭烈(しょうれつ)は、また、禅(ぜん)に命(めい)じて言(い)います。

「お前(まえ)は丞相(じょうしょう)の言(い)うことに従(したが)い、丞相(じょうしょう)に対(たい)して父(ちち)と同(おな)じように接(せっ)しなさい」

ついに昭烈(しょうれつ)は崩御(ほうぎょ)しました。